代打ホームランの世界記録

代打 高井保弘

ダリル・スペンサーから癖を学んだ。バックネット裏に変装して張り込んでピッチャーの癖を盗んだ。そこには古き良き時代があった。

74年に野村克也監督の計らいでオールスターに監督推薦で選ばれた。代打専門の選手が選ばれたのも驚きだが、パーリーグ監督の野村は、長い下積みの苦労人、代打専門の高井の打棒を評価していた。

そして、絶好の場面がやって来た。2対1の1点ビハインドの9回1死ランナー1塁。マウンドにはヤクルトのエース松岡弘。

オープン戦で一度、松岡と対戦して、左肘が下がると、ストレートもしくはシュート。併殺狙いのシュートを予測して、左足を開いて内角を上手くさばいた。インコース低めの難しい球を見事にレフトスタンドに打ち込んだのだ。オールスター初の逆転サヨナラホームランとなった。

大リーグでは、指名打者制度が既に採用していたが、アメリカの記者O・マイヤーズがこの高井に関心を持っていた。高井の活躍から、75年からパリーグの指名打者制度が生まれた。

81年9月3日の西武戦。若い選手に混ざって代打の準備をしていた。俺が勝負決めるから「お前ら、道具揃えて帰る準備しとけや」と言った。

相手投手は永射保。ストレートに照準を合わせると、レフトスタンドに飛び込むサヨナラホームランを放った。

野村克也が「ささやき戦術」で「何(のボール)待ってんのや」と話しかけてきたときには、「ヤマの張り合いをしよう」と持ちかけ、投球の球種を当てた上に、最後には本塁打した。ダイヤモンドを一周して戻ってきたときに野村が「われ、何でわかんのや」と聞いたが「そんなこと言えまっか、言えまへん」と答えた。

通算代打ホームラン27本の世界記録を残し、2019年12月13日、病のために死亡した。

27本目を打ったバットは今も、野球殿堂博物館に保管されている。

    怪童尾崎行雄

    サイドハンドに近いスリークォーターからの剛速球。

    浪商を2年で中退して、東映フライヤーズに入団し、最初の年に20勝9敗で新人王を獲得した。18歳での新人王は現在に至るまで史上最年少である。契約金は5000万と言われているが、当時3年前に入団した長嶋茂雄の契約金が1800万、だったのを考えると破格の金額である。

    オープン戦で長嶋茂雄と対戦し3球三振。しかし、大毎の4番打者山内和弘に「尾崎は球が速いだけで大した事はない」と語ったのを知った尾崎は、開幕第2戦でリリーフし葛城隆雄を投手ゴロ、榎本喜八を三振、そして山内和弘を外角低めの快速球で見事三振に仕留めた。その間の15球は全てストレートだった。

    そのストレートはサイドハンドに近いスリークォーターから、うなりをあげて飛んでくると言われ、時速159キロと計算した研究者もいたが、僕の場合終速が速かった、と本人が語っている。

    そして、高校時代からプロ1年目の頃の尾崎が、一番球が速かったと言われている。

    東映で尾崎とバッテリーを組んでいた、種成雅之は「僕の野球人生に中で、捕球した時に、ボールの勢いでミットが止まらなかったのは、尾崎だけ」という証言している。9月11日でようやく18歳になる少年に、ストレートだけで20勝してしまった。当時、ミサイル打線と言われた大毎から最多の6勝を挙げた。

    しかし指にマメの出来る体質に苦しみ、また酷使の影響もあって29歳で現役を引退。プロ通算107勝を挙げ、夏の甲子園の優勝投手としては戦後初のプロ通算100勝投手となった。

    引退後はレストランを経営した後、スポーツ関係の会社に勤務。少年野球の指導を行っていた。2013年6月13日に肺がんのため死去。68歳没。

    投手寿命を縮めた右肩痛は酷使だけでなく、ボウリング元凶説がある。当時の番記者が回想する。
     「なにしろボウリングが好きで、ボウリング場通いをしていた。野球の剛速球並みに投げるから、ピンが壊れてしまったこともあった。でも、太く、短くは尾崎らしいと思った」と。これまた怪童番外伝説だ。

      阪急の速球王山口高志

      昭和40年代から50年代にかけて、活躍した選手がみんな、口を揃えて言うのが、この山口です。幾度と対戦している門田、チームメイトである山田久志氏も認めている。特に、高めのつり球で空振りを多く、とっていたイメージがある。

      「高志は9回から速くなるからびっくりするよ」と言い、8割以上がストレートだった為に野村克也から『オマエ、データなんて見たことないやろ。ええな』と言われたこともあった。ストレートしか来ないとわかっていても打てなかった。

      高田繁、山本浩二も同じ意見

      当時、江夏豊と対戦した高田繁、が、明らかに、山口の方が速い。日本シリーズで対戦した、山本浩二も同じように話している。

      当時のキャッチャーの川村建一郎は「球を捕るのを初めて怖いと思った」と語っています。

      審判の村田康一は「山口が球速No.1」だと断言している

      まさに電光石火で散った直球王か?

      時々地面に突き指する程の豪快な投球フォームで、常に全力投球の投球スタイル。

      4年間で身体をすべて使い果たした。

      昭和50年の日本シリーズ。8回に登場する。夕方の西宮球場は夕方になると、1塁側の照明塔の影がグランドにかかる、しかも、マウンドとホームの真ん中にのびる。これで、丁度、バッターボックスの手前から、影のコントラストができボールが見づらくなる。当時の上田利治監督はそのタイミングで山口を投入した。このシリーズ山口は、大車輪の活躍でMVPを獲得した。

      強烈な伸びをみせる山口の直球は高めに来ると、必ずと言っていい程、浮き上がったボールになる。打者は、ストライクに見え、空振りしてしまう。

      有名なエピソード


      当時の近鉄の西本監督は、「山口の高めのストレートは振るな」と指示を出した、にもかかわらず、手を出し空振りした羽田をベンチで殴りつけた。しかし実際、羽田選手は、先頭バッターでベンチを出ており、この指示を聞いていない。西本監督は後でこれに気づき、気まずかったと言う。

       そのくらい、打倒、山口に対して熱くなっていた、というエピソード。

      関西大学の2年の時の大学選手権では、準決勝の法大戦で延長20回を完投するというに人間離れしたピッチングをみせた。しかも最後なで球威が衰えなかったと言う。

      パンチ佐藤氏の証言、「山口さんの指導は単純明快であった、困ったときは真っ直ぐやろ、こればっかりでした」当人は真っ直ぐしか投げないのだから。変化球といえば、ちょっと曲がるカーブだけ、時々、指のかかり具合でカットボール気味になった。

        場外ホームラン

        阪急のブーマーが88年7月13日西宮球場の西武戦で左翼席の場外に放ったホームランも記録的だった。本塁からラッキーゾーンまで90メートル、そこから球場を区切っている塀まで71メートル、高さ7メートルのフェンスを越えたので阪急の広報担当は162メートルと発表した。 “場外ホームラン” の続きを読む

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