史上最高の投手は誰か?昭和40年~昭和末期

この頃は各球団に、真のエースがいました。

巨人 堀内恒夫は「甲斐の子天狗」と呼ばれ、高卒1年目から13連勝を記録。

中日 星野仙一は気持ちを前面に出して、9連覇中の巨人に立ち向かい、大洋 平松政次はストレートよりも速い、剃刀シュートで打者を斬りきり舞いさせ、ヤクルト 松岡弘は伸びのあるストレート 広島カープ 外木場はドロップと速球でノーヒットノーランを2度達成。

パリーグでも、喧嘩投法の東尾修、近鉄 鈴木啓示は左腕で300勝達成。無四球試合の日本記録を打ち立て、自らを「草魂」と例えました。南海 江本孟紀 日ハム 高橋一三、と個性的なエースが各球団にいました。

サブマリンのエース山田久志

若いころは、あの美しいアンダースローはから浮き上がるストレートで打者を打ち取ってきました。

しかし、日本シリーズで王貞治からサヨナラ逆転ホームランを浴び、この試合が今後の投球スタイルに大きな影響を与えました。それから、シンカーを覚え、阪急の黄金時代のエースに君臨します。

握りが見えても打てないフォーク

ロッテの村田兆治はマサカリ投法と呼ばれ、真っ向から投げ下ろすストレートと、切れ味鋭いフォークボールで三振を量産しました。晩年は、肘の故障で、日本人で初めてトミージョン手術を受け、サンデー兆治と呼ばれ復活しました。

一匹狼の江夏豊

オールスターの舞台で9連続奪三振の偉業。年間400奪三振。近鉄との日本シリーズで魅せた江夏の21球と、歴史に残るピッチングを残しました。

スピード、コントロール、打者との駆け引き、すべて一級品で、全盛期のONに立ち向かっていきました。

そして、王貞治から400個目の三振を狙って捕るなどの離れ業も。

晩年は、リリーフに革命を起こしました。

ホップするストレートの江川卓

同僚の篠塚和典が、高校時代に対戦した時にストレートが本当にホップしていたと語り、高木豊も大学時代対戦した時に、浮き上がる球が本当にあるんだと証言。栗山英樹もプロ入り後に対戦した時に、浮きががると同じ証言。ドラゴンズのエース小松辰雄は、打席に入った時に、ボールが大きく見えると語りました。

本格派の宿命か、大学時代から肩に故障があり、プロ野球でも短命に終わりました。しかし、9年間で135勝を上げ、ジャイアンツのエースに君臨しました。

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