江川の高校時代 春の選抜伝説①

甲子園までの長い道のり

江川卓は小学生の時、静岡に住んでいた。江川少年は浜松の天竜川の対岸まで100メートルはある岸の向こうまで、毎日、石を投げていた。普通に投げても届かない「石を風に乗せないと届かない」と思い、石を風に乗せることを考えて投げていた。 “江川の高校時代 春の選抜伝説①” の続きを読む

森安敏明

森安敏明1965年1位で東映フライヤーズに入団。翌1966年のプロ入り初登板で初完封を挙げた。デビューから4年連続二桁勝利をあげ、尾崎行雄の次代のエースとして期待される。サイドスローから非常に速い球を投げた投手で、親友だった江夏豊や「スカウトの神様」木庭教ら多くのプロ野球OBが山口高志と共に史上最速の投手として挙げている。ただ豪速球と共にシュートも速かったが、制球力に難があるいわゆる「荒れ球」投手であり、1968年のシーズン与死球22個は日本記録。また、左打者を苦手としていた。

野村(克也捕手)も振り遅れていたな。本当に速かった。あれなら南海だけでなく、どこがきてもそうは打たれないよ、と東映・水原茂監督も孫ほど年の違うルーキーを褒めちぎった。シュート回転しながらインコースをえぐる直球に野村は「手がしびれた。おっかない球や」と脱帽した。

 スピードガンなどない時代。サイドスローから繰り出す真っ直ぐの球速はどのくらいだったのか。想像の域を出ないが、対戦した打者の証言を総合すると、初速と終速の差があまりないという

速球男の中でも「打てるなら、打ってみろ!」の乱暴さが魅力になっていた。対戦した打者たちは「一番速いかどうかは分からないが、一番怖かったのは確か」と口をそろえる。

有藤通世氏(元ロッテ)が「(森安は)ピッチングより、ぶつけるコントロールの方が良かった」と苦笑していたが、明らかに報復と疑われても仕方がない投球もあったが、荒れ球の超スピード・シュートがほとんどだったから、ちょっと手元が狂ったら大ごとになってしまう危険があった。

 ただし、打者ではなく森安氏本人にとって大ごとになってしまうことがしばしばだった。右打者にとって、ヒザ元に食い込むのではなく、外から真ん中に曲がってくる投げそこないのシュートほど“おいしいもの”はないからである。プロ初登板が完封だった(66年4月13日、南海戦で1対0)が、南海の打者は恐ろしくて腰が引けっぱなしだったのだろう。

 しかし、慣れられると、甘くなったシュートをポンポンホームランされ、69年にはホームラン配給王(34本)。四球王も2度。それでも、どこに来るか分からない超荒れ球(68年の22死球はプロ野球最多記録)の持ち主が66~70年の5シーズンで242試合(“黒い霧事件”で永久失格選手となった70年は14試合)も投げることができたのは、球速とともに「球威」があったからである。

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