首里高校甲子園の土の悲劇

首里高校

首里高校は1958年第40回大会に沖縄県として初出場を果しました。

優勝をして甲子園を決めた後、国際通りをトラックの荷台に乗ってパレードをしました。学校に戻ると先生、生徒がずっと待っていて大歓迎を受けました。

当時の沖縄県の野球事情はよくありませんでした。野球道具は学校からに支給され、米軍のお下がりを貰い受けることもありました。

球場にも外野スタンドの設置がなく、フェンスもないので、線を直接越えたらホームラン、ゴロで線を越えたら2塁打と草野球の様な決め事がありました。

甲子園に行く前に鹿児島の鴨池球場で、外野フェンスのクッションボールの処理の練習をして汽車に乗って甲子園に出かけました。

試合は大会2日目、福井の敦賀高校で、キャッチャーに阪神タイガースで活躍する、辻佳紀

(ヒゲの辻)が在籍していました。試合は12安打を浴びて3失点。わずか3安打の完封負け。試合終了後、選手達は、おのおのバットケースやスパイク袋に甲子園の土を入れて持ち帰りました。これは試合後によく見る光景です。

選手達は甲子園を去り、鹿児島から沖縄港に戻りました。しかし、沖縄はまだ、米国の統治下にあって植物防疫法により、甲子園の土を持って下船することは出来ませんでした。

そのまま、むなしく沖縄港の海に捨てられたのです。

この事実を知った、日本航空の客室乗務員が、甲子園の小石を首里高校に贈りました。

この行為に首里高校のナインが感銘を受け、後に、この小石を埋め込まれた甲子園出場記念碑「友愛の碑」を建立したのです。

そして、この甲子園の小石は、今も校内に静かにたたずんでいます。

最後のワインドアップ左腕能見篤史

プロ野球通算1500奪三振を達成

2021年5月8日オリックスの能見篤史選手が、プロ野球通算1500奪三振の記録を達成しました。

ZOZOマリンスタジアムの千葉ロッテ戦で9回、最後のバッター、レアードを得意のフォークで空振り三振を奪いNPB史上57人目の記録。

41歳11カ月での達成は、2007年、ロッテの小宮山悟に並ぶ最年長記録となり、また、投球回数は1726回3/2で、西口文也を抜いて歴代6位のスピード記録となりました。

阪神時代の2012年に最多奪三振に輝いた実績もありますが、いまだ、球威は衰えず、移籍したオリックスで固定できない抑えを任されて、見事、今季2個目のセーブを挙げました。

一昨年は、40代の投手としての年間最多登板記録も達成しています。

能見投手と言えば、阪神時代は大きく振りかぶってワインドアップで投げていました。

その昔「振りかぶって、第一球を・・・・」ラジオのアナウンサーのお決まりの文句でした。僕が子供の頃、ピッチャーは、振りかぶるのが当たり前でした。そして、何しろカッコよかった。

しかし、近年では、癖が出やすい、バランスが崩れてコントロールを乱しやすい、などの理由で近年は、ワインドアップで投げる投手は少なくなりました。

能見選手には、これからもワインドアップ投法で切れのある速球でバッターをねじ伏せて欲しい。

昔の各エース級のピッチャーはすべてワインドアップで投げていたのだ。

堀内恒夫、星野仙一、外木場、松岡、平松、山田久志、村田兆治など。

能見選手、是非、ワインドアップで投げてくれ、今の少年達に、カッコいい投球フォームをこれからも、ずっと見せて欲しい。

戦後2刀流の関根潤三

沢村栄治から褒められた少年

出典 Wikipedia Public domain

関根順三が、中学生(日大三中、現、日大三高)の時に、多摩川の河川敷で練習をしていると沢村栄治が、どてら姿で現れて、打撃練習をしていた関根に向って「君、素質があるよ、しっかり頑張りなよ」と沢村から肩に手をポンと置いて声をかけられました。

当時の日本一の投手から褒められたのです。関根はこの言葉を受けて、六大学に入ってプロを目指そうと思いました。

法政大学に進学した関根は、あの寝業師、根本陸男とバッテリーを組み、東京六大学で通算41勝30敗、防御率1.96の成績を残しました。

転機となった日米野球

卒業を迎えた、昭和24年の秋、アメリカの3Aのチーム、サンフランシスコ・シールズが来日し、日本のプロ野球選抜チームと対戦をしました。ところが、全く歯が立たず10戦を終えて1勝9敗。

最後の一戦は、六大学野球選抜チームとの対戦でした。

ところが、先発を任された関根は、初回にいきなり2点を奪われました。この試合が唯一の大学選抜と試合で、精鋭を集めたチームでしたが、当時監督の藤田は交代を命じず、そのまま続投させました。意気に感じた関根は、その後0を並べ、延長13回に2点を奪われ4対2で敗れましたが、このシリーズ、唯一の完投投手で脚光を浴びました。

それは、17歳で大リーグ選抜チームに快投を演じた、若き日の沢村栄治のように。

2刀流でオールスター出場

関根は昭和25年、その藤田監督率いる近鉄パールズに入団し、投打で活躍。

オールスターには、投手、打者の両方で選ばれ出場という、偉業を達成しました。投手としてファン投票で1回。外野手としてファン投票で1回、監督推薦で3回出場しました。2リーグ制以後では唯一の防御率ベストテン入り、打率ベストテン入りの双方を達成。

さらに、プロ野球で通算50勝、1000本安打の双方の達成は2リーグ制以後唯一であり、1リーグ時代を含めてもドラゴンズで活躍した西沢道夫しか達成していない記録です。

投手で1番の元祖リアル2刀流

それは、1971年8月22日ヤクルト対大洋戦での場内アナウンスで発表されました。

ダブルヘッダーの2試合目、ヤクルト三原監督は先発の外山義明投手を1番で起用したのです。そして面白いことに、三原監督は2番にも簾内政雄投手をアテ馬として起用し、ここに1番2番投手による1、2番コンビが誕生しました。

外山は100メートルを12秒1の俊足でバッティングセンスもあり打球の速さは、主力に勝るとも劣らないほど。三原監督は、近鉄の監督時代も永淵洋三投手を外野手として使った実績がありました。

実は、中西ヘッドコーチも打者としての素質は文句なしとのことで、キャンプから2刀流の練習をさせていました。

そして試合が始まると、1回の表のピッチングで先頭打者に簡単にヒットを打たれ、4番の松原誠に二塁打を浴び、早くも1失点。

その裏1番バッターとして打席に入るも、1塁ゴロに倒れました。

2回も、四球2つと安打で満塁のピンチを向かえると、二塁打を浴び、更に四球を与え、早々と降板となりました。

残念ながら、この日は、打者として1打数ノーヒット、投手としては1回3分の1を投げて被安打4、与四球4、自責点5の成績で投打に精彩を欠く結果となりました。

しかし、外山はこの年、投手として33試合に登板し、5勝11敗、防御率3.25

打者として打率.311厘、打点11、3本塁打の成績を残し、最下位に沈んだヤクルトに明るい話題を残しました。

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