昭和初期から戦後編
この年代はやはり沢村栄治か?
懸河のドロップと快速球で、わずか17歳の少年が、ベーブルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックス等の最強メンバーの大リーグ選抜から9奪三振、1失点の好投も惜敗。
創世記の職業野球と呼ばれていた時代の大エース。ノーヒットノーランを達成を3回達成し、三度目は戦争帰国後で肩痛の為、アンダースロからの投球で達成。
大阪タイガースの景浦將と名勝負を繰り広げました。
3度目の召集で東シナ海に於いて戦死。
双璧はスタルヒン
ロシアから亡命し日本名は須田博。沢村栄治よりも速かったとされる。
戦死した沢村栄治の後を継ぎジャイアンツのエースとして君臨。
シーズン42勝を記録し、2人目のノーヒットノーランを達成。NPB史上初の300勝投手となりました。
沢村はキレの良い速球でしたが、スタルヒンのボールは、ズドンと来る重い速球とされる。
スパイ容疑をかけられ日本国籍は得られず、晩年、自動車事故死。
タイダースのエース西村幸生
沢村栄治との対戦を望んでタイガースに入団。試合後にもらった賞金でお酒を呑むことを好んだことから酒仙(主戦)投手と呼ばれました。
コントロールが抜群に良く、後述する稲尾と双璧と言われています。
特にジャイアンツには強く、優勝決定戦にはことごとく勝利し、1937年、38年と2年連続で優勝した時の立役者
しかし、フィリピンで戦死。
三角巾で腕を吊って投げた別所毅彦
1941年の春の選抜大会で本塁クロスプレーで左肘を骨折し、三角巾で腕を吊って延長12回まで投げたがサヨナラ負けを喫し、その名が世間に知られました。
南海ホークスに入団後、巨人が引き抜き事件を起こし2か月の出場停止処分を受けましたが、長らく巨人のエースを務めました。
シーズン47完投の記録保持者で沢村賞の初代受賞者。51年の松竹ロビンス戦では9回2死まで完全試合を継続していましたが、ブルペン捕手の神崎安隆に内野安打を許し、惜しくも完全試合を逃しました。