スクリューボール

元祖は高橋一三か?

真っ直ぐとカーブが主流の時代、右バッターの外角に落ちる球を駆使し打ち取るスタイルは、今の左投手の原型を作った。

若手の頃は球が速く、特殊な機械で計測したら156.46キロ出ていたと言う。

胴上げ投手を9度経験という日本記録を持っている

ヤクルトスワローズの安田のボールはパラシュートボールと呼んだ。

せいぜい130キロそこそこしか出ないが、かなりのくせ球で揺れながら緩く落ちていった。

全盛期の王選手に対して.254厘に抑えている。

81イニング連続無四球のプロ野球記録を樹立。この記録は田渕幸一への敬遠で始まり、同じ田渕幸一への敬遠四球で終わった。

ドラゴンズの松本幸行も同じタイプ。1974年には20勝を挙げ、最多勝に輝きリーグ優勝に貢献。テンポよく投げ込むスタイルで、打者のタイミングが合わない。揺れながら外角に沈んでいくシュートで凡打の山を築いた。

しかし、なんと言っても山本昌

アメリカベロビーチのキャンプ時に、星野監督からこのまま残れ、と言われた。名目は野球留学で聞こえはいいが事実上、その年は戦力外扱い。

そこでアイク生原と出会った。ドジャース会長補佐の彼は、マイナーの試合後は、宿舎で反省会。いつも熱心に山本に付き添った。

アイク氏が「バレンズエラが投球練習をするから見に行こう」と誘い、その時、スクリューボールを見たが凄すぎて参考にならない。右ピッチャーのカーブの様な曲がり方をする。「僕には投げられません」と言った。

ある日、山本のキャッチボールの相手をしていた内野手がシンカーを投げてきた。

こいつの球だったら投げられるかもしれないと。この内野手以外にもシュート系の投げる選手には、片っ端から握りや投げ方を聞きまわった。その姿勢からは、何としても、この変化球をものにして何とかこの世界で生きてやろうと必死さが伝わってくる。

しかし、実際はそうではなかった。

キャッチボールで遊んでいるうちに覚えてしまった。必死で練習したとか、取得するために投げ込んだというわけではなかった。日本のファームだったら結果を問われる、しかし、アメリカ留学では別に何もなかった。

向こうのバッターはどんどん振ってくる、そういうバッターから空振りが取れたり、ゴロでダブルプレーが取れた。その繰り返しが山本の自身になった。

もし、これが日本だったらどうだったろう、見逃されたり、ミートに徹してきたかもしれない、そしたら、やっぱりダメだ、やめとこうという事で断念していたかもしれない。

アメリカという環境のせいだと本人は語っている。

実は、スクリューよりもカーブのほうが効いた?

1989年、再びアメリカに渡った山本は、アイク生原から、カーブの握りを教わった。そこで徹底的にカーブを磨いた。マスターするのに3年かかった。

その4年後に最多賞のタイトルを取った。

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