■スライダーの元祖は藤本英雄
青田昇曰く「藤本英雄のスライダーは、投げてから手元でホップするところまではストレートと同じで、そこからスッと曲がった。」
1950年6月28日の対西日本パイレーツ戦(青森球場)で日本プロ野球史上初の完全試合を達成しました。この試合の先発予定は多田文久三でしたが、多田が食あたりで腹を壊したため藤本が急遽先発となりました。しかも藤本自身も前夜「青森での登板はないだろう」と判断して、函館から青森に移動する青函連絡船の中で徹夜マージャンに興じ、ほとんど睡眠をとらない状態で登板しての記録達成だったそうです。しかし、この試合は新聞記者は4人。そしてカメラマンが一人もいなかったため、達成時の写真がないという結末。余談ですが当時中学生だった寺山修二がこの試合を観戦していたそうです。
出典 Wikipedia 藤本英雄(1949年沢村賞受賞時)
■その後継者は稲尾和久
稲尾のスライダーは真横に滑る魔球だった。カウント球ではなく、バットの芯を外してゴロを打たせる決め球でした。大沢啓二は「キラッと光って消えちまうから打てんわ」のセリフを残しています。
稲尾と同時代の使い手は土橋正幸で、ピッと切れる140台のスライダーを投げていました。
稲尾が新人の頃、当時の西鉄の猛者揃いの、豊田泰光、中西太のバッティングピッチャーを努めた時、彼らが三原監督に練習にならんから(つまり打てない)ピッチャーを代えてくれ、と言ったという。
■伊藤智仁は高速スライダーで奪三振
とにかくこの人のスライダーは天下一品。肩の可動域が広く、ホームベース手前で早く大きく鋭く曲がります。ルーキーの93年のシーズンが最高成績だったのが惜しまれます。背中の方から、大きく曲がりアウトコースのボールゾーンへ曲がる大きくて高速なスライダーは、まるでゲームのように曲がる程。しかし、輝きをみせたのは、ルーキーの年だけで、その後は故障に泣かされ、若くして引退たのが惜しまれます。
■そして山井大介のあわや日本シリーズで完全試合
そして、今だに物議を交わす、山井の日本シリーズでの快投。あの日はブルペンからスライダーが異常に切れていたと、キャッチャーの谷繁がコメントしていました。映像を見ていましたが、確かに画面からもその切れ味は分かりました。交代は指に出来たマメが潰れたとか、肩の調子が悪かったとか9回降板の真相は闇の中です。まさに伝説の日本シリーズでの一世一代の投球をみせました。