1996年の夏の甲子園の決勝戦での奇跡 それは、熊本工業と松山商業の決勝戦での最終回に起こりました。
9回2死からの同点本塁打
熊本工業が2-3の1点ビハインドの9回も2死となり、あとアウト1つで優勝の場面。 “浜風に乗ったバックホーム” の続きを読む
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1996年の夏の甲子園の決勝戦での奇跡 それは、熊本工業と松山商業の決勝戦での最終回に起こりました。
9回2死からの同点本塁打
熊本工業が2-3の1点ビハインドの9回も2死となり、あとアウト1つで優勝の場面。 “浜風に乗ったバックホーム” の続きを読む
2015年8月18日、横浜球場での横浜ベイスターズ対ヤクルト戦。
5回の表、ベイスターズの久保投手から、ヤクルトの雄平選手(高井雄平)が放った右中間への飛球に、ライトを守る梶谷が勢いよく、フェンスに激突しながら “塀際の魔術師~爆笑編” の続きを読む
1981年9月16日 阪急の山森雅文の金網によじ登ってホームランをもぎ取った、ホームランキャッチ。
1回の表、ロッテの弘田澄夫が、阪急山田久志から、打った瞬間レフトへのホームラン、と
誰もが思いました。投手の山田久志は打たれた瞬間、完全にホームランと思っていました。レフト後方に目をやると、山森が背走し、金網のフェンスの最上部に、よじ登っていました。「あいつ何やってるんだろう」と山田久志は思ったそうです。
そして、左手を伸ばし、ホームランと思われたこの飛球を見事にキャッチ。
このプレーは、アメリカの野球殿堂博物館でも紹介されています。
しかしこの、プレーは単なる偶然ではなかったのです。常、日頃から、大熊外野守備コーチによって、このシーンを想定して練習をしていました。
フェンス迄の距離、歩数、金網への足のかけ方まで研究し、まさに準備、努力の賜物から生まれた会心のプレーだったのです。
1974年のオールスター西宮球場での第2戦、田淵幸一の放った左中間への飛球を、背走してフェンスによじ登り、そこから更にジャンプをして観客席の中から捥ぎ捕りました。
「人間業ではなく猿技」だと長嶋茂雄が呟きました。
2010年8月 赤松真人の忍者キャッチ
8月4日の横浜ベイスターズ戦、村田修一が左中間に放った、ホームラン性の飛球をセンターの赤松が素早くフェンスによじ登り、一瞬のうちにこのホームランの当たりを横取りしました。グランドに降り立っても、ポーカーフェイスを装い、打者村田も狐に包まれたかのような表情でした。
まさに忍者の様な「瞬時のホームランキャッチ」でした。
同じ8月22日 のマツダスタジアムで今度は天谷宗一郎が魅せる。
同じく横浜ベイスターズ戦、ハーパーの放った右中間への飛球に、センターの天谷がフェンスによじ登り、エビ反りになりながらも好捕。こちらは、滞空時間が長く捕球までに少し、余裕がありました。
地元、テレビの「2人目のスパイダーマンが現れました」と実況。
しかも、阪急の金森と同じように、普段の練習から、打球をイメージしてフェンス迄の距離と歩数、フェンスの足のかけ方、上り方まで研究をしていました。年に1度か2度しかないプレーを想定して練習をするなんてやっぱりプロですね。
ちなみに両者共に投げていたのは、同じ左腕投手、斎藤悠葵で相手も同じ横浜ベイスターズ。
だから野球は「面白い」。
塀際の魔術師と言えば、巨人の平山菊二の名前が挙がります。
1948年の東西対抗戦の第5戦。7回2死から飯田徳治が放ったレフトポール際への大飛球を、レフトを守っていた平山が右手をフェンスに掛けて、ジャンプして左手をスタンドの中へ差し出しながらこのホームランの打球をもぎ捕りました。
このプレーを観た大和球士にとって「塀際の魔術師」名付けられ、これが平山の生涯の代名詞となります。
平山は強肩としても鳴らし、最多補殺24はプロ野球最多記録となっています。
レフトライン際の魔術師
塀際の魔術師が平山なら、同じジャイアンツの高田繁は、「ライン際の魔術師」。
俊足、強肩を生かしたレフトの守備は素早く、特にレフトライン際に飛んだ打球は、なかなかセカンドに進塁出来ませんでした。
そして面白いことに、自らも「高田ファウル」と言う名の痛烈なレフトへの打球が代名詞でした。
そんな、外野守備の名手、高田繁を長嶋茂雄監督はサードにコンバート。
しかも、ゴールデングラブ賞まで獲得する。そんな、2人の野球観は常人では考えらません。しかし、それに答えた高田も凄い。
外野フェンスラバー設置のきっかけになった危険なプレー
プロ野球の歴史に残るプレーは1977年4月29日、川崎球場での大洋ホエールズ対阪神タイガース戦での出来事。
大洋ホエールズが、1点を追う9回の裏の攻撃。
清水透が放った左翼後方フェンス際への飛球を、阪神の佐野仙好が、追いかけてフェンスに激突。頭を強く打ちつけ、そのまま倒れ込みました。しかし、ボールはグラブの中で放さず、捕球。無情にも、1塁ランナーが1塁からタッチアップをしてホームまで帰り、同点となりました。
本来なら、センターの池辺選手が佐野選手からボールを譲り受け内野手に返球をしなくてはなりませんが、それどころではない程の重傷でした。
すかさず、グランド内に救急車が直接乗り入れ、そのまま病院へ直行し、頭蓋骨陥没と診断の重傷。その後、復帰までに2か月間かかりましたが、規定打席不足ながら、打率3割を残しました。
当時は、外野フェンスがコンクリート製の球場が多く、川崎球場も例外ではありませんでした。その後、この出来事をきっかけに、外野フェンスにラバーが設置される事となりました。
1975年、阪急ブレーブスと広島カープとの日本シリーズ第5戦。
このシリーズでは阪急が圧倒し、これまで4戦、戦って阪急ブレーブスの2勝2分け。
6回の裏、1点を追う広島の攻撃。
無死1,2でシェーンの当たりは、左中間への鋭い打球で、長打コース。完全に抜ける当たりで2人の走者がかえり、広島が逆転と思われました!
と、思いきやあらかじめ、レフトよりに守っていた福本が背走し、フェンス手前で逆シングルのまま頭上で好捕。1塁ランナーが戻れず併殺となりチャンスをつぶしました。
そのまま勢いに乗り、阪急はこの日本シリーズ1敗もせず、球団創設初の念願の日本一に輝きました。この頃、阪急の外野手、ウィリアムズ、福本、蓑田の外野トリオは鉄壁でした。