一本足打法の系譜

投手との間合いをはかって、タイミングを合わせる打ち方で、投手とシンクロする特殊な打法。取得するのが難しい。

この打法の第一号は、ご存じ王貞治。

武士道的な心得が必要

荒川博コーチとのマンツーマンの指導で、世界のホームラン王となりました。

畳の上での木刀での素振り、名刺で割り箸を割るなど、伝説に残る練習をして会得しました。勝負する投手との相手との間合いを合わせる打ち方で、まさに、武士道的な心得が必要な打法です。

しかし、当初は上手くいかず、何度も挫折し諦めかけました。

当時の川上哲治監督も、いつか二本足に戻すだろうと。ところが、王貞治は頑固として、この一本足打法を貫き、世界のホームラン王に輝きました。

中距離打者の一本足 片平晋作 

高校時代に王貞治の真似をして打席に入ったら、自分のポイントで打てた。それから自分の物にしたという。

皆、王貞治に憧れました、そして一本足打法に挑戦するも、物にした選手は数少ない。

その数少ない選手片平晋作。とにかく王さんの真似をしたと言う。

夏場に王選手が半袖にすると、すぐに半袖にしたという、しかし、本人は「そりゃ、夏場になればだれでも半袖にするでしょう」と反論。

王さんと、指の絆創膏の位置が違うと言われたことも。

長距離打者でなく、中距離ヒッター、長打にこだわらず自分なりの打撃を磨いた。

徹底的に振込み自分にあった一本足打法を確立しました。

南海で、初めてレギュラーを獲得すると79年に初めて規定打席に達して、リーグ3位の打率329。80年には自己最多の21本塁打を放つ。

しかし、西武ライオンズにトレードされてからが片平の円熟期。

田渕幸一からの1塁の守備位置を奪い、勝負強い打撃で82年のリーグ優勝、日本一に貢献しました。

ホームランの打ちそこないがヒット 門田博光  

この打法で一番高く足を上げていたのが門田博光。

王貞治とは違って、綺麗な一本足ではなく、大きくて足を上げてタイミングを計るのではなく、体の反動で打球を飛ばす一本足。

1971年に、31本塁打を放ち、打点王を獲ったこの年から、大振りが目立ち打撃を崩すことが多くなり、みかねた当時の野村監督は、王貞治に頼んで、「ヒットの延長がホームラン」と2人がかりで説得を試みました。しかし、逆に反論してきて、王選手を唖然とさせたと言うエピソードが残っています。

野村監督はオールスターで戦でも、大杉勝男にも説得を依頼したと言いう。

79年の春のキャンプでアキレス腱の断裂の大怪我をした際にも、

「じゃあ、ホームランを打てばいいんでしょう」と全打席フルスイングをしてホームランを狙っていきました。

アキレス腱断裂の怪我が転機

門田博光は周囲の声を聞かず、フルスイングにこだわり続けました。

そして、アキレス腱断裂の怪我以降、年齢が上がるにしたがってホームラン数が増えていきました。

40歳にして打率311 44本塁打、125打点でMVPに選ばれました。本塁打王、打点王、そして40歳にしてMVPを獲得したのは門田博光だけです。

新しいタイプの一本足打法

そして、今年、ドラゴンズに育成出身の渡辺勝が現れました。

2015年に、育成でしかも最下位指名の6位入団。

大学時代に荒川博に従事したことから、構えから、初動まで、王貞治そっくり。

現代野球に、この打法合わないとの意見が多い中で、自分の意思を貫き通し取得。

そして、2018年ドラゴンズと選手契約をし、6年目の27歳の遅咲き外野手。

どちらかというと守備、そして足のスペシャリストとして1軍へ昇格しましたが、今年は打撃も向上、先日の広島戦でも広いバンテリンドームのライトスタンドへ一発を放ちヒーローになりました。

機動力を兼ねそなえた新しいタイプの一本足打法は、プロ野球界に新たな旋風を起こすかもしれません。

今や絶滅危惧種のこの打法で、プロ野球で勝負している、渡辺勝にはこれからも期待したい。

伝説のヘディング事件宇野勝

宇野勝

それは1981年8月26日の出来事。当時、私は高校生で、この試合は親父と一緒にテレビ観戦をしていました。今では考えられませんが、昔、巨人戦は全試合テレビ放送があるのがごく、当たり前の時代でした。 “伝説のヘディング事件宇野勝” の続きを読む

首里高校甲子園の土の悲劇

首里高校

首里高校は1958年第40回大会に沖縄県として初出場を果しました。

優勝をして甲子園を決めた後、国際通りをトラックの荷台に乗ってパレードをしました。学校に戻ると先生、生徒がずっと待っていて大歓迎を受けました。

当時の沖縄県の野球事情はよくありませんでした。野球道具は学校からに支給され、米軍のお下がりを貰い受けることもありました。

球場にも外野スタンドの設置がなく、フェンスもないので、線を直接越えたらホームラン、ゴロで線を越えたら2塁打と草野球の様な決め事がありました。

甲子園に行く前に鹿児島の鴨池球場で、外野フェンスのクッションボールの処理の練習をして汽車に乗って甲子園に出かけました。

試合は大会2日目、福井の敦賀高校で、キャッチャーに阪神タイガースで活躍する、辻佳紀

(ヒゲの辻)が在籍していました。試合は12安打を浴びて3失点。わずか3安打の完封負け。試合終了後、選手達は、おのおのバットケースやスパイク袋に甲子園の土を入れて持ち帰りました。これは試合後によく見る光景です。

選手達は甲子園を去り、鹿児島から沖縄港に戻りました。しかし、沖縄はまだ、米国の統治下にあって植物防疫法により、甲子園の土を持って下船することは出来ませんでした。

そのまま、むなしく沖縄港の海に捨てられたのです。

この事実を知った、日本航空の客室乗務員が、甲子園の小石を首里高校に贈りました。

この行為に首里高校のナインが感銘を受け、後に、この小石を埋め込まれた甲子園出場記念碑「友愛の碑」を建立したのです。

そして、この甲子園の小石は、今も校内に静かにたたずんでいます。

侍ジャパン見事な金メダル

北京から13年の月日が流れついに金メダル。地元東京開催で、しかもソフトボール女子と同時受賞。

思えば、1984年のロサンゼルスオリンピックの公開競技で金メダルを獲得し、それから長い年月が経ちました。

この時は、大学生7人、社会人12人のアマチュアだけの構成で、広沢克己が台湾のエース郭泰源からホームランを放ち6-3で見事、勝利しました。

アテネオリンピックでは、長嶋監督が脳梗塞で倒れ、急遽中畑監督が指揮を執りましたが、惜しくも銅メダル。北京では星野監督のもと、金メダルを目指しましたがメダルを獲れず4位となり、侍ジャパンにとって今回のメダル獲得は悲願でした。

この試合、アメリカチームの先発はマルチネス。

このマルチネスは昨年まではファイターズに在籍、そして今年、ソフトバンクに移籍すると急成長。7勝をあげてエース級の働きをし、日本人のコーチが教え育てたアメリカ人選手です。150キロの速球とカットボール、チェンジアップを駆使して好投。

しかし、8番に甘んじていた、スワローズの若き主砲、村上宗隆が決め球のチェンジアップをフルスイングすると、左中間スタンドギリギリに飛び込むホームランで先制しました。

先発の森下暢仁は5イニング3安打5奪三振と先発の働きを全うすると、千賀滉大、伊藤大海、岩崎優、と無失点リレー。

8回にこのオリンピック好調の山田哲人がヤクルト同僚のマクガフから、ヒットで出塁。

続く、吉田正尚がセンター前にヒットを放つと、暴投で山田が生還して貴重な1点をもぎ取りました。

こうなれば、抑えは栗林良史が登板。3人を簡単に抑えて、見事勝利。

日本チームは、好調、不調の選手の見極めがしっかり出来ていました。

好調の坂本勇人、山田哲人、吉田正尚、の3人を固定して並べ、バランスを考えて村上もあえて下位打線から動かしませんでした。不調の鈴木誠也も我慢してそのまま4番を固定し、打てなくても四球を選び、そして今日は2安打を放ちました。

一方のアメリカチームはメジャーリーガーが不参加で日本在住の外国人が主体。

今日先発のマルチネス、マクガフ、ベイスターズのオースティン、元オリックスのディクソン、元日本ハムのカーター、そして3Aの若手有望株トリストン・カサスが4番を打ち、シェーン・バズがエースとして登板。

それぞれ、いいパフォーマンスをみせましたが日本の実力の方が勝っていました。

日本はミスが少なく、緻密な野球、チームプレーに徹したことが大きな要因。野球とベースボールの違いが大きく結果として現れました。

地元の東京オリンピックで悲願の金メダル、長嶋監督、星野監督も成しえなかった夢を稲葉監督が叶えました。

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