嶋 清一

和歌山県中学校出身。

足を高く上げ、流れるようなフォームで強靭な左腕から投じられる剛速球と垂直に落ちるかのような「懸河のドロップ」は、当時の中学野球のレベルをはるかに超えるものだったと言われている。

昭和14年の夏の甲子園では圧巻の投球。史上初の5試合連続完封、しかも、準決勝、決勝で2試合連続ノーヒットノーランを達成し全国制覇。

決勝では2人のランナーを四球で出したが、いずれも塁上で刺し、27人で切りの完全な内容。

ちなみに池田高校の名将、蔦監督は徳島商業のピッチャーとして対戦。阪急、近鉄で監督をした西本幸雄らが、嶋と対戦し、

「彼の球は本当に速かった。戦争がなければ職業野球(プロ野球)に入ってもっと活躍していただろう」と語っている。

学徒出陣によって海軍に応召。大学の先輩である天知俊一によると、嶋は入営前に「戦争がなければ朝日新聞の記者になりたかった」と天知に告げたという

昭和20年3月29日シンガポールから門司に向かう輸送船団の護衛任務でベトナムの海岸線付近を北上中に、アメリカの潜水艦の雷撃に遭い戦死した。満24歳没 。

沢村栄治

■沢村栄治が伝説になった快投

1934年11月30日の草薙球場での全日本チーム対大リーグ選抜チームとの試合で快投。

9奪三振を奪ったが、7回にルー・ゲーリックにホームランを打たれて、1―0で敗れた。

この頃、日本では、ピッチャーは投込めば投げるほど球威が上がるとされ、この日も、沢村は、多くの球数を投げた上に登板したうえでの快投でした。この頃の、野球は大リーグと日本には、相当のレベルの差があり、実際にこの年の成績も0勝16敗。

わずか17歳の少年は、この投球により伝説の投手となった。

プロ野球が始まった1936年に、プロ初のノーヒットノーランを達成し、巨人を初優勝させた。さらに翌年、2度目のノーヒットノーラン、24勝をあげプロ野球初のMVPを受賞した。

■タイガースとの決戦は3連投

11年12月9日から州崎で行われるタイガースとの三連戦は3連投。

第3戦の前日沢村は日本橋の旅館布袋屋で宿泊。何も飾り付けも、床の間もない部屋に泊まり、肩が痛く眠れない為、女将と女中に馬肉で冷やしてもらって、試合に臨んだ。

ちなみに、この時、第一戦でこの沢村から4回裏にカウント1-3から豪快なスリーランを放った景浦の打球は、左翼スタンドでワンバウンドして海に消えた。(後に太平洋ホームランと形容される)

そして、沢村は決戦の日も5回から登板し勝利投手になった。


沢村の野球人生は順風満帆のはずだった、戦争さえなければ・・・。

■3度の応召

1938年から1940年まで沢村は徴兵され、2年間を棒にふっただけでなく、手榴弾の投げ過ぎで肩を壊した。

復帰後は、マラリアに感染した影響で、球場内で倒れたり、肩を壊した為に、サイドスローに投げ方を変えた。

球速が上がらなかったが、制球力と変化球主体のピッピングに成功し、見事3度目のノーヒットノーランを達成した。

しかし、2度目の徴兵により、復帰後は肩が完全に上がらず、今度はアンダースローで投手を務めた。しかし、幾度となく戦地へ出かけた影響により、身体はボロボロで投手としては成績が上がらなかった。

■最後の試合出場は何と

最後の試合出場は、何と、青田昇の代打としての打席だった。若林の投げた初球を打ち上げ三塁へのファウルフライとなった。これが沢村の最後の試合出場であった。

復員後は巨人を解雇され、飛行機工場で失意のまま働いた。
昭和19年、沢村は驚くべき出会いがあった。景浦との出会いである。ほんの数年前に、ライバルとして戦って大観衆から声援を受けてきた2人が、航空機の脚や燃料タンクの骨組みを作る作業に追われていた。作業の合間の休憩時間に2人は防空壕の中で煙草を吸いながら話し込んだという。

そして、沢村は3度目の応召。フィリピンへ向かう輸送船に乗り込んだ。

10月2日アメリカの潜水艦から魚雷攻撃により帰らぬ人となった。

■かつて沢村栄治の球を受けた故・山口千万石(せんまんごく)捕手の指は、その剛速球で曲がったという

千葉茂によると、スピン効いた快速球、スタルヒンの場合は、ズドンと来る重い球と表現している。

内保氏「沢村のカーブは三段階に曲がり、ドスンと落ちる。しかも三段階目の時は、球が一瞬止まったものだ。」

三校文献 週間ベースボール2009年5月11日号

林 安夫

愛知県一宮中(現・一宮高校)時代はスピードのある直球と制球力を駆使し1941年の選抜大会で準優勝。

1942年の朝日軍に入団。プロ野球では変化球と制球力で勝負し1年目に32勝を上げ防御率1.01で最優秀防御率のタイトルを獲得。この年の投球回数541回1/3 先発51試合の記録は未だにプロ野球の日本記録である。

翌1943年は前年の酷使の影響か登板数は減ったが20勝を上げた。

また、バッティングもよく投手ながら5番ライトの出場も多かった。

やがて1944年に応召し、フィィリピン方面に出征。そして戻って来ることはなかった。

戦死したと考えられ、死亡日時や場所は現在に至るまで不明のままである。

Wikipediaより出典

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