1983年(昭58) 10月21日 14年生 石山一秀 現役最終打席でプロ初本塁打
【阪急17―15近鉄】後楽園球場では大洋の平松政次投手が巨人相手に通算200勝を達成し、藤井寺球場では近鉄の2年目、ドラフト1位入団の金村義明三塁手がプロ初を含む2本塁打7打点と大暴れした日、ほとんど新聞で記事にはならなかった珍しい記録が刻まれた。
プロ野球人生14年目、近鉄・石山一秀捕手が阪急との最終戦の9回に森浩二投手から1号本塁打を放った。実は石山にとってこれが1軍での初本塁打。通算215試合、77打席目にしてようやく味わう会心の当たりはほとんど無人のスタンドへ美しい放物線を描いて飛び込んだ。
4位が確定している近鉄にとって消化試合だったが、近鉄ベンチは大はしゃぎ。打たれた阪急ベンチからも拍手が送られ、この日辞任を表明した近鉄・関口清治監督も満面の笑みで出迎えた。
「最後にホームランを打てるなんて…」と感慨無量の石山。この年限りで近鉄のユニホームを脱ぐことが決まっており、近鉄の選手として最後の打席で初めてホームランを打つという劇的な結末。両軍合わせて39安打32得点の乱打戦はわずか観衆3000人だったが、試合内容より長年の近鉄ファンにとっては苦労人捕手のフィナーレを飾る一撃として忘れられないゲームとなった。
1969年(昭44)、ドラフト5位で入団。1位指名された青森・三沢高の大田幸司投手の注目度から比べれば全く無名の存在だった。京都・平安高の強肩強打の捕手として評判は高かったが、各球団とも獲得には踏み切れない事情があった。当時外国人枠は各球団とも2人と規定されており、韓国籍の石山を入団させると、あとは1人しか助っ人を置いておけないことになるためだった。
近鉄はドラフト指名前に高校を卒業した石山を練習生としてチームに入れ、1軍の調整の手伝いをさせ、その合間を縫って指導。秋のドラフトで正式に選手として契約した。
当時の三原脩監督が直々に打撃指導するなど、期待をかけられた捕手だったが、近鉄は有田修三、梨田昌孝とどの球団に行ってもレギュラーになれる2枚看板がいたため、石山は常に3番手捕手。その才能を惜しんだ西本幸雄監督が「宝の持ち腐れになってしまう。いい意味でトレードしてあげたほうがいい」と移籍先を懸命に探したこともあった。
近鉄を退団した後、巨人の新浦寿夫投手とともに渡韓。三星ライオンズでコーチ兼捕手として活躍。その後、近鉄のコーチとして復帰。近鉄かが消滅すると、楽天の編成部に籍を置くなど、野球とのかかわり今でも続いている。