物干竿の藤村富美男

藤村冨美男は1935年11月11日大阪タイガースと月給100円で契約をした。

翌年の4月29日に甲子園球場で行われた日本職業野球の開幕戦に先発し、名古屋金鯱軍を相手に9回1安打11奪三振の快投で初勝利を飾っている。85年の歴史を誇るタイガースの初勝利は藤村だった。

この時代の職業野球では、投手と打者は明確に分業出来ていなかった。投手が中軸を打つことは珍しくなかった。1つ年下の景浦将も投手と野手で活躍していた。

戦前の藤村は打率3割を4回、本塁打王1回、投手としては防御率3位を記録していた。

しかし、藤村は1939年の応召、1941年に太平洋戦争がはじまると南方戦線に派遣される。

1943年に除隊となったが、23歳から27歳までの働き盛りの時期に兵役についていたのだ。

通算安打は1694安打だが、もし戦争がなかったら間違いなく2000本安打を達成していただろう。

藤村はまだ幸運だった。同僚の景浦将は2度応召し、フィリピンで戦死している。

翌年の1946年にプロ野球は再開した。その時点で30歳を迎える。

1948年10月2日の金星戦では日本プロ野球史上初のサイクル安打を達成。

更に、1950年の5月25日の広島戦でもサイクル安打を達成している。

実は日本の球界がサイクル安打に気づいたのは1965年になってからだ。

阪急のダリルスペンサーがサイクル安打を記録した時に、「なんでこんな記録について聞かないんだ」と記者に訊ねたからだ。それで、記者部が過去のスコアシートを調べて藤村のサイクル安打の記録を発見したのだ。藤村はすでに17年前に引退していた。

1949年には46本塁打、142打点、2冠王でMVP。

1950年は首位打者。191安打はイチローが破るまでの日本記録であった。

有名な物干竿も、戦後、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘が人気で、対抗意識で使い始めたという。

出典Wikipedia ベースボールマガジン社

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