大杉 勝男
荒い打撃と三振が目立ち、本塁打は出るものの低打率に苦しむ。転機となったのは1968年9月6日のオリオンズ戦、第4打席まで無安打と結果を残せないまま試合は1対1のまま延長戦に突入し、延長11回裏に打席が回ってきた。
東映の打撃コーチだった飯島滋弥は大杉に、「月に向かって打て!」というアドバイスを送った。
このアドバイスはアッパースイングで振り遅れが目立った大杉の打撃を端正しようとしたときに出たもので、弾丸ライナーを打つのにちょうど良い位置に月があったため、そのように表現したという。
アドバイスを受けた直後の打席では右飛に終わったものの、この言葉で大杉は打撃のコツをつかみ、翌年からリーグを代表する強打者へと成長した。
1983年、両リーグ200本塁打の記録もあと1本まで迫っていたが(通算本塁打はパ・リーグで287本、セ・リーグで199本)、持病の不整脈が悪化し、同年限りで引退を表明した。
引退試合の挨拶で「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません」という言葉を残した。
また引退会見の席では「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」という句を詠んでいる。
引退後は野球解説者を務め1990年横浜大洋ホエールズの一軍打撃コーチに就任したがガンに侵されていることが判明し、退団。
1992年肝臓がんで死去。47歳没。名球会会員最初の物故者となった。