権藤、権藤、雨、権藤 と言われルーキの権藤博は投げまくった。
右足をプレートに乗せて、そこから跳び上がるようにして投球が始まる。全身これバネ。
177センチの長身が185センチくらいに見える。投球に角度がつくため、打者が打ちにくく、直球のスピードも抜群で中日球団史上最速という人は多い。
松木謙治郎から沢村栄治に最も近い男と言われていた。
社会人のブリヂストンから入団の1年目の成績は信じられないもので、35勝で最多勝。429イニング1/3。
カーブ、シュート、シンカーのコンビネーションで打者を打ち取る。
61年は権藤、権藤、雨、権藤という流行語も生まれた。これは、巨人の堀本律夫が、「中日の投手は権藤しかおらんのか、つぶれてしまうぞ。権藤、雨、移動日、権藤、雨、権藤や」と記者に語った事から生まれた。7月4日からは、実際に、雨、完封、雨、移動日、完投、雨、移動日、先発(5回)、雨、雨、移動日、先発(5回)と12日間だったことがあった。
35勝11敗、防御率1.70 沢村賞、新人王、奪三振310を記録。
どの球種も一級品で、全盛期のONに立ち向かった。しかし、長嶋には全く通用せず、.448.と打ち込まれ、奪三振は0だった。
62年も30勝。
そして、背番号20はドラゴンズのエースの譜系を引き継ぐ。
しかし、その後は3年で17勝。酷使の付けは大きかった。その後野手に転向するが、活躍は出来なかった。
引退後は、指導者として活躍する。特に、近鉄での投手コーチとして優勝に貢献。ダイエー、古巣のドラゴンズにも、復帰。
そして監督としては1998年に横浜ベイスターズを日本一にしている。
しかし、コーチ時代は、いずれも、仰木、高木監督と衝突し長続きはしなかった。