それは、1971年8月22日ヤクルト対大洋戦での場内アナウンスで発表されました。
ダブルヘッダーの2試合目、ヤクルト三原監督は先発の外山義明投手を1番で起用したのです。そして面白いことに、三原監督は2番にも簾内政雄投手をアテ馬として起用し、ここに1番2番投手による1、2番コンビが誕生しました。
外山は100メートルを12秒1の俊足でバッティングセンスもあり打球の速さは、主力に勝るとも劣らないほど。三原監督は、近鉄の監督時代も永淵洋三投手を外野手として使った実績がありました。
実は、中西ヘッドコーチも打者としての素質は文句なしとのことで、キャンプから2刀流の練習をさせていました。
そして試合が始まると、1回の表のピッチングで先頭打者に簡単にヒットを打たれ、4番の松原誠に二塁打を浴び、早くも1失点。
その裏1番バッターとして打席に入るも、1塁ゴロに倒れました。
2回も、四球2つと安打で満塁のピンチを向かえると、二塁打を浴び、更に四球を与え、早々と降板となりました。
残念ながら、この日は、打者として1打数ノーヒット、投手としては1回3分の1を投げて被安打4、与四球4、自責点5の成績で投打に精彩を欠く結果となりました。
しかし、外山はこの年、投手として33試合に登板し、5勝11敗、防御率3.25
打者として打率.311厘、打点11、3本塁打の成績を残し、最下位に沈んだヤクルトに明るい話題を残しました。