沢村栄治から褒められた少年
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関根順三が、中学生(日大三中、現、日大三高)の時に、多摩川の河川敷で練習をしていると沢村栄治が、どてら姿で現れて、打撃練習をしていた関根に向って「君、素質があるよ、しっかり頑張りなよ」と沢村から肩に手をポンと置いて声をかけられました。
当時の日本一の投手から褒められたのです。関根はこの言葉を受けて、六大学に入ってプロを目指そうと思いました。
法政大学に進学した関根は、あの寝業師、根本陸男とバッテリーを組み、東京六大学で通算41勝30敗、防御率1.96の成績を残しました。
転機となった日米野球
卒業を迎えた、昭和24年の秋、アメリカの3Aのチーム、サンフランシスコ・シールズが来日し、日本のプロ野球選抜チームと対戦をしました。ところが、全く歯が立たず10戦を終えて1勝9敗。
最後の一戦は、六大学野球選抜チームとの対戦でした。
ところが、先発を任された関根は、初回にいきなり2点を奪われました。この試合が唯一の大学選抜と試合で、精鋭を集めたチームでしたが、当時監督の藤田は交代を命じず、そのまま続投させました。意気に感じた関根は、その後0を並べ、延長13回に2点を奪われ4対2で敗れましたが、このシリーズ、唯一の完投投手で脚光を浴びました。
それは、17歳で大リーグ選抜チームに快投を演じた、若き日の沢村栄治のように。
2刀流でオールスター出場
関根は昭和25年、その藤田監督率いる近鉄パールズに入団し、投打で活躍。
オールスターには、投手、打者の両方で選ばれ出場という、偉業を達成しました。投手としてファン投票で1回。外野手としてファン投票で1回、監督推薦で3回出場しました。2リーグ制以後では唯一の防御率ベストテン入り、打率ベストテン入りの双方を達成。
さらに、プロ野球で通算50勝、1000本安打の双方の達成は2リーグ制以後唯一であり、1リーグ時代を含めてもドラゴンズで活躍した西沢道夫しか達成していない記録です。