怪童尾崎行雄

サイドハンドに近いスリークォーターからの剛速球。

浪商を2年で中退して、東映フライヤーズに入団し、最初の年に20勝9敗で新人王を獲得した。18歳での新人王は現在に至るまで史上最年少である。契約金は5000万と言われているが、当時3年前に入団した長嶋茂雄の契約金が1800万、だったのを考えると破格の金額である。

オープン戦で長嶋茂雄と対戦し3球三振。しかし、大毎の4番打者山内和弘に「尾崎は球が速いだけで大した事はない」と語ったのを知った尾崎は、開幕第2戦でリリーフし葛城隆雄を投手ゴロ、榎本喜八を三振、そして山内和弘を外角低めの快速球で見事三振に仕留めた。その間の15球は全てストレートだった。

そのストレートはサイドハンドに近いスリークォーターから、うなりをあげて飛んでくると言われ、時速159キロと計算した研究者もいたが、僕の場合終速が速かった、と本人が語っている。

そして、高校時代からプロ1年目の頃の尾崎が、一番球が速かったと言われている。

東映で尾崎とバッテリーを組んでいた、種成雅之は「僕の野球人生に中で、捕球した時に、ボールの勢いでミットが止まらなかったのは、尾崎だけ」という証言している。9月11日でようやく18歳になる少年に、ストレートだけで20勝してしまった。当時、ミサイル打線と言われた大毎から最多の6勝を挙げた。

しかし指にマメの出来る体質に苦しみ、また酷使の影響もあって29歳で現役を引退。プロ通算107勝を挙げ、夏の甲子園の優勝投手としては戦後初のプロ通算100勝投手となった。

引退後はレストランを経営した後、スポーツ関係の会社に勤務。少年野球の指導を行っていた。2013年6月13日に肺がんのため死去。68歳没。

投手寿命を縮めた右肩痛は酷使だけでなく、ボウリング元凶説がある。当時の番記者が回想する。
 「なにしろボウリングが好きで、ボウリング場通いをしていた。野球の剛速球並みに投げるから、ピンが壊れてしまったこともあった。でも、太く、短くは尾崎らしいと思った」と。これまた怪童番外伝説だ。

阪急の速球王山口高志

昭和40年代から50年代にかけて、活躍した選手がみんな、口を揃えて言うのが、この山口です。幾度と対戦している門田、チームメイトである山田久志氏も認めている。特に、高めのつり球で空振りを多く、とっていたイメージがある。

「高志は9回から速くなるからびっくりするよ」と言い、8割以上がストレートだった為に野村克也から『オマエ、データなんて見たことないやろ。ええな』と言われたこともあった。ストレートしか来ないとわかっていても打てなかった。

高田繁、山本浩二も同じ意見

当時、江夏豊と対戦した高田繁、が、明らかに、山口の方が速い。日本シリーズで対戦した、山本浩二も同じように話している。

当時のキャッチャーの川村建一郎は「球を捕るのを初めて怖いと思った」と語っています。

審判の村田康一は「山口が球速No.1」だと断言している

まさに電光石火で散った直球王か?

時々地面に突き指する程の豪快な投球フォームで、常に全力投球の投球スタイル。

4年間で身体をすべて使い果たした。

昭和50年の日本シリーズ。8回に登場する。夕方の西宮球場は夕方になると、1塁側の照明塔の影がグランドにかかる、しかも、マウンドとホームの真ん中にのびる。これで、丁度、バッターボックスの手前から、影のコントラストができボールが見づらくなる。当時の上田利治監督はそのタイミングで山口を投入した。このシリーズ山口は、大車輪の活躍でMVPを獲得した。

強烈な伸びをみせる山口の直球は高めに来ると、必ずと言っていい程、浮き上がったボールになる。打者は、ストライクに見え、空振りしてしまう。

有名なエピソード


当時の近鉄の西本監督は、「山口の高めのストレートは振るな」と指示を出した、にもかかわらず、手を出し空振りした羽田をベンチで殴りつけた。しかし実際、羽田選手は、先頭バッターでベンチを出ており、この指示を聞いていない。西本監督は後でこれに気づき、気まずかったと言う。

 そのくらい、打倒、山口に対して熱くなっていた、というエピソード。

関西大学の2年の時の大学選手権では、準決勝の法大戦で延長20回を完投するというに人間離れしたピッチングをみせた。しかも最後なで球威が衰えなかったと言う。

パンチ佐藤氏の証言、「山口さんの指導は単純明快であった、困ったときは真っ直ぐやろ、こればっかりでした」当人は真っ直ぐしか投げないのだから。変化球といえば、ちょっと曲がるカーブだけ、時々、指のかかり具合でカットボール気味になった。

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