背面投げのエース小川健太郎

昭和44年、6月15日後楽園球場で行われた巨人対中日戦で、誰もが驚く光景を目にしました。

バッター王貞治に対して、中日の先発、小川健太郎は、カウント2-1と追い込んでから、アンダースローのモーションに入るとテークバックした右腕を背中に回して、そのまま、体の左側からヒョイと放りました。球は惜しくもボールとなりましたが、打者の王は唖然と見送り、スタンドからもどよめきが起こりました。そして、直後の球をライトフライに打ち取りました。

それだけではありません、次打席でも追い込んでから、同じ「背面投げ」で王貞治を幻惑しました。残念ながらこの球も、ワンバウンドのボールとなりましたが、この打席でもフルカウントから見事、三振に打ち取りました。

本人は前からよく練習していたとのことで、準備よく、この試合の始まる前に審判にも、背面投げの了解を取っていたそうです。

遅咲きの選手、小川健太郎はドラゴンズのエースでした。

31歳でプロ初勝利を飾った遅咲きの選手です。1967年には、29勝17敗の成績で沢村賞を受賞。

杉下茂、権藤博、小川健太郎、そして、その後、星野仙一、小松辰雄とドラゴンズのエースナンバー20を背負い今後も活躍が期待されました。

しかし、その後、1970年、八百長オートレースに関係していた疑いで逮捕。

球界を永久追放となりました。

プロ入り初登板で1球勝利

横山貴明が思わぬ形でプロ入り初勝利を飾った。

2014年8月30日 楽天対ソフトバンク戦での出来事。

7回の表の1対1の同点、2死2塁のピンチに、マウンドに上がると今宮健太に初球をセンター前に運ばれヒットを打たれると、2塁ランナーが生還し得点を与えた。しかし、2塁を欲張った打者走者の今宮がセカンドで憤死。1点を献上したがチェンジとなった。

横山はそのまま、7回で交代したが、直後に楽天打線が爆発。大量8得点を挙げた。

結局そのまま楽天が勝利し、横山に白星が付き、1球を投げただけで勝利が転がってきた。

1球勝利は過去多数あり37人目だが、プロ初登板の1球勝利は史上初。打者走者がヒットで出塁後にアウトになった為、この時点では通算被打率10割で勝利したことになり、極めて珍しい記録である。

ヒーローでないことを自覚している、初勝利の横山はベンチ裏に現れ

「勝ちが付いた事はうれしいけど、それ以上に恥ずかしい」と答えている。

背番号18の譜系

背番号の歴史は1929年4月18日。

ヤンキースはヤンキースタジアムの開幕戦に背中に番号の入ったユニフォームで登場。それまで袖に番号を付けた球団はあったが、背中は初めてだった。番号はベストメンバーの打順を元に作成されており、3番はベーブ・ルース、4番はルー・ゲーリックであった。8番を打つキャッチャーは3人起用するので、投手は11番以降である。日本で言う、エース18番はムーアというリリーフ投手がつけていた。


日本チームが初めての第一回アメリア遠征を行った時の背番号もアメリカ方式で、沢村栄治が17、スタルヒンが18。帰国後に完全にアメリカ方式になり、投手が10番台で沢村が14番で(後に永久欠番)でスタルヒンが18番を背負い看板ナンバーとなる。


巨人軍は、36年に2度目のアメリカ遠征を行い、帰国後に藤本定義が監督に就任。社会人きってのエース前川八郎を入団させ背番号18を与えた。その頃の大リーグには18番の好選手は全くいなかったのでアメリカからの影響は全くないと言える。


タイガースには、七色の変化球を駆使し、エースとなった若林忠志が18番を背負っていた。

当時のタイガースは、背番号をイロハの順につけていた。1番、伊賀上良平 2番、小川年安、3番、岡田宗芳。もし全員この方式なら、若林は5,6でないといけない。よって、理由は不明である。但し、若林は当時、社会人野球のスターで、もしかしたら本人の希望かもしれない。


36年セネタースの18番は野口明。当時の球界で沢村と並ぶ好投手。兵役に入ると、弟の二郎が入団。こちらも甲子園優勝投手でエリートで、兄の18番を引き継いだ。1年目からいきなり33勝。兄が復員してからも18番をつけて、通算237勝を挙げている。

巨人は前川が退団すると、39年中尾輝三が継いだ。

野口二朗の18番が一番輝いた試合は、語り継がれる延長28回を投げ抜いた試合だ。1942年5月の対名古屋戦で、相手のエースは17番のスター、西沢道夫。4対4の日没引き分けに終わった壮絶な投手戦。しかも、野口は前日にも、先発して被安打1の準完全試合をやっている。恐れ入ります。

逆シングルの白石勝巳

今では当たり前になった逆シングルを編み出した。

巨人、第一次黄金期の千葉茂との二遊間は「水も漏らさない」と言われ、特に白石の三遊間の守備には定評があった。これは、元々、一塁手だった白石が普段から逆シングルで送球を受けることが度々あり、内野手の守備でもとっさに出ることがあった。

当時の野球は、内野手は両手で捕るのが絶対的で、片手で捕る事はしなかった。しかし、1936年のアメリカ遠征でヒントを掴み、逆シングルで捕った方が守備範囲が広くなると考えていた。プィリピン遠征で披露すると観客が沸いたため、本格的に取り入れたという。

一説には、生まれつき右目の視力が弱かった為、逆シングルで捕る事になった要因といわれる。

1949年のシーズンオフに広島カープが誕生し、広島が故郷の白石が入団し、背番号1を与えられた。

ほとんどの観客は、巨人の黄金期を支えたスターを見ようと球場に足を運んだ。その後も、弱小球団を牽引し、何度も球団存続の危機を救った。

1950年の3月16日の中日戦には球団初の1号本塁打を放った。

学校のグランドで公式戦。

当時は、ギャラの前払いをしてくれるものがあり、観音寺球場(広島市営球場)以外にも、河川敷、学校のグランドでも試合が行われた。それなりの広さがある場所ならどこでも公式戦が行われた。グランドとの観客席の間にロープを張られることもあり、相手チームと揉めることもあった。

53年4月1日の尾道高校のグランドで行われた大洋松竹ロビンス戦では、白石の打球をホームランにしてやれとばかりに、観客がロープを前に出し、ホームランにしてしまった。その後も判定が変わらず、これは「ナワホームラン」と呼ばれた。

1950年6月7日の三次市の土手で行われた試合でも、川土手を急遽、観客席にして公式戦を行い広島が6本塁打28安打を放ち勝利したが、チーム一試合の最多安打として未だにセリーグの記録として残っている。

守備の人のイメージがあるが、50年には一試合2本塁打も放ち、20本塁打打率.304でベストナインにも選ばれた。

翌51年も4試合連続ホームランも記録し、12本塁打.288を記録した。

1956年8月12日、対巨人戦での生涯最高のビックプレー。

広島の1点リードで迎えた9回裏、巨人の攻撃は二死、一二塁でバッターは川上哲治。ここで川上は痛烈な打球を三遊間に放ちレフト前に抜けるかと思われた打球を白石が逆シングルで掴んだ。一塁に投げるフェイントをして、オーバーランをした三塁走者を刺し、試合終了となった。

実はこの年から勝率三割を切ったチームは解散するという規定があり、当時、弱小球団であった広島はこのゲームを落としていたら解散するところであった。この年、最下位に落ちた松竹ロビンスは勝率.288で大洋と合併している。

結果的に球団消滅を救ったビックプレーであった。

球界に名高い名手と言われるが、失策数はプロ野球史上断トツの646個だが、当時のグランド状況の悪さ、また、守備範囲の広さから生まれた失策も多かったのも要因である。

王シフトを編み出した。

引退後は、広島の監督も務めた。

64年には王シフトを編み出している。65年には入団した、衣笠祥雄を内野手に転向させた。

また、ゼネラルマネージャーとして広島財界のトップ東洋工業の松田恒次と交流を持ち、広島市民球場の建設、日南キャンプの誘致、独立採算の補強費の調達にとどまらないチーム作りを行った。当時の口癖は勝率5割であった。

引退後は、解説者を務めたが巨人の川上監督からの要請で、ヘッドコーチとして再び巨人のユニフォームを着ることとなりV9に貢献した。

85年に野球殿堂入り、2000年没。

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