首里高校甲子園の土の悲劇

首里高校は1958年第40回大会に沖縄県として初出場を果しました。

優勝をして甲子園を決めた後、国際通りをトラックの荷台に乗ってパレードをしました。学校に戻ると先生、生徒がずっと待っていて大歓迎を受けました。

当時の沖縄県の野球事情はよくありませんでした。野球道具は学校からに支給され、米軍のお下がりを貰い受けることもありました。

球場にも外野スタンドの設置がなく、フェンスもないので、線を直接越えたらホームラン、ゴロで線を越えたら2塁打と草野球の様な決め事がありました。

甲子園に行く前に鹿児島の鴨池球場で、外野フェンスのクッションボールの処理の練習をして汽車に乗って甲子園に出かけました。

試合は大会2日目、福井の敦賀高校で、キャッチャーに阪神タイガースで活躍する、辻佳紀

(ヒゲの辻)が在籍していました。試合は12安打を浴びて3失点。わずか3安打の完封負け。試合終了後、選手達は、おのおのバットケースやスパイク袋に甲子園の土を入れて持ち帰りました。これは試合後によく見る光景です。

選手達は甲子園を去り、鹿児島から沖縄港に戻りました。しかし、沖縄はまだ、米国の統治下にあって植物防疫法により、甲子園の土を持って下船することは出来ませんでした。

そのまま、むなしく沖縄港の海に捨てられたのです。

この事実を知った、日本航空の客室乗務員が、甲子園の小石を首里高校に贈りました。

この行為に首里高校のナインが感銘を受け、後に、この小石を埋め込まれた甲子園出場記念碑「友愛の碑」を建立したのです。

そして、この甲子園の小石は、今も校内に静かにたたずんでいます。

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