名人苅田久徳

苅田の前に苅田なく、苅田の後に苅田なし。

苅田は法政大学の頃、天才遊撃手と呼ばれていました。プロ入りしてから、2塁手に転向し、近代野球にセカンドの重要性を説きました。しかし、本当の苅田の名を世間に知らしめるのは、戦後になってからの事です。

戦後のプロ野球復興の名人

終戦の翌年、プロ野球が再開され、苅田がセネタースから名前を変えた東急フライヤーズに、プレーイングマネジャーとして戻ってきたのは1947年。

この頃の内野手と言えば、南海の木塚忠助、阪神の吉田義男、三宅史、等がいました。いずれも俊敏で華麗で軽快な名手たち。

苅田の周りに打球が飛ぶと、脱兎のごとく身をひるがえし、ボールに追いつき素早く送球をする…。わけではありません。打球が近くに転がると、すすっと動くといつの間にかボールの前にいるのです。ボールをつかむと、速くとも遅くともない送球で打者をアウトにするのです。派手でもなく、堅実でもない、ある意味、天才で名人を感じさせない地味なプレーヤーでした。それでも球界で、名人だったのは苅田が刺すべきものは必ず刺したからでした。

蝶のように舞い蜂のように刺す

例えばランナーが1塁にいて、ボールがサードかショートに飛ぶ、当然、苅田がダブルプレーに入るためにセカンドに入る、打者走者を刺すには、素早い送球に移らなければならない。この場合でも、彼の送球は早くも遅くもない。ベース上でボールをつかむと身をひるがえすことなく、そのままベースを走り抜けながら1塁へ見ないまま、左わきの下からボールを投げるのです。

現代であれば、ノールックスローというべきでしょう。このダブルプレーを観たくてファンは試合前からフライヤーズの練習に押しかけました。それが苅田久徳でした。

苅田に一番近い選手は中日の高木守道ではないでしょうか。彼のバックトスはまさに名人技。なんなく、送球して打者をアウトにするところは大洋の山下大輔。

優雅な名人芸

しかし、苅田は全盛期の昭和14年、35個もエラーをおかしています。エラーの数が多くても、好プレーの印象が強かった?そんな苅田は名人と呼ばれる所以なのです。当時の道具とグランドの整備状況を考える必要があります。もし、今の人工芝ならきっとエラーをしないのではないでしょうか?

いろんな例えの名人がいますが、この苅田久徳は唯一、優雅と呼ばれる名人と言うべきでしょう。

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