プロ野球の選手になるのが夢だった

昔の男の子達の夢はプロ野球選手だった。だから誰もが、自然に野球をやっていた。

学校の校庭、神社の境内、そしてどこにでもあった空き地、公園とちょっとした広場があれば、そこでボールとグローブも持って、明るい声が響き渡っていました。

とても、こんな狭いところで、出来やしない場所でも三角ベースで野球。学校の教室でも、掃除の時間中に、ほうきをバット代わりにして新聞紙を丸めて野球

みんな野球選手に憧れていました

中でも巨人の人気は断トツで、愛知県育ちのドラゴンズの地元でも、半分はYGの帽子をカぶっていました。巨人は全国区で、今では信じられない事に、毎日130試合のすべてのゲームを日本テレビが中継をしていました。

そして、こんな流行語も「おー、カネだ、ひろおか」言うまでもなく王、金田、広岡のことをもじったもの。小学校の帰り道にそう言って道端の一遍を覗き込み、友達をからかい笑っていました。

いかにも子供っぽい、他愛もない遊びですが、それほど、子供たちの生活のいち部が野球に入り込んでいました。

大きな球場が身近にない、田舎の子供にとってプロ野球の試合を見る、野球場に行くだけで胸が高まり、そこで活躍する選手達は子供たちのヒーローでした。

ドラゴンズの野球帽

名古屋近郊で育った私は、学校から帰ると、当然の如くドラゴンズの帽子をかぶって遊びに出かけました。球以外の外出でも、当たり前の様に。そして、帽子の横には14番の文字が刺繍されていました。当時のドラゴンズの主力だった谷沢健一の背番号でした。

後に彼は、アキレス腱を断裂の大怪我をしましたが、奇跡的に復帰、その時の背番号は14を逆さにした41番で見事不死鳥の如く蘇り首位打者を獲得しました。

14番の他には1番の高木守道、23番の木俣立彦、そして忘れちゃいけない背番号20番は星野仙一だった。当時から星野仙一は別格で、子供ながら20番を付ける子供は少なかった。子供でも、星野仙一の背番号は恐れ多くて、ためらいがあったのでしょう(笑)

名鉄のナゴヤ球場前の駅で降り高架線沿いに歩くと、右側に名古屋球場の照明搭が見えて来る、私は野球場の照明搭を見ると胸が高鳴るのです。
そして場内に入ると薄暗いスタンドの下をくぐり抜けると、視界が一気に開けてグランドが目に飛び込んでくる、外野の芝生の緑がなんて鮮やかなんだろう…。

やがて、照明搭に灯が入ると、カクテル光線に照らされた芝生がさらに鮮やかになる。

あの、泥臭い雰囲気の名古屋球場が好きだった。

そこで、天才左腕、今中慎二、殿堂入りした山本昌、山崎武、中村武志のプレーに熱くなった。

そして、私は今も、ドラゴンズの若手の成長を楽しみにナゴヤ球場に出かけていく。

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