最多奪三振野田浩司

1995年4月21日 千葉マリンスタジアムでのオリックス対ロッテ戦。

1試合19奪三振の日本記録。実に27のアウトのうち19個が三振で奪いました。70%強の奪三振率。

野田浩司ははじめから三振の数を数えていた。意識していたと言うより、あの頃は面白いほど三振が取れた。でもあんなに行くとは…。

野田は狙っていなかった。が、しかし、出来るだけ三振を取る、という事にこだわっていました。それが、自分への証でした。「俺の球はまだ生きている」

阪神の不可解なトレード

野田は、87年のドラフト1位で阪神に入団。5年間で36勝を上げましたが、最高は11勝で、成績は伸び悩み壁を突き破れず、くすぶっていました。そしてオリックスに松永浩美外野手と電撃トレード。

6年目の野田は、球速もあり、フォークのキレも冴えわたり投手として円熟期を迎えていました。何故、こんな投手を32歳の峠を越えたベテラン外野手と交換したのでしょう。

ちなみに交換相手の松永はタイガースでの成績は、30試合に出場し、打率.294、8本塁打、31打点という寂しい成績で翌年、FA権を行使して1年限りでダイエーにさっさと移籍してしまいました。

山田久志との出会い

新天地の投手コーチは山田久志でした。この出会いが野田を覚醒させることになる。技術的な事よりも精神的なことを学んだと言う。投手がマウンドで戦う気持ちと闘争心、そして何より信頼して送られる事を意気に感じていました。

「オリックスで男になってやる」そろそろ一皮むける頃にトレード、そして山田投手コーチという精神を鍛えるコーチがいたことが、ただ速い投手から大きく変貌を遂げることになりました。早速、移籍1年目に野茂英雄と並んで17勝を上げ最多勝。

19奪三振の大記録を打ち立てる

野田は過去にも93年に16奪三振、94年にも17奪三振の日本タイ記録を作り、62年の対南海戦で阪急の足立光宏、90年の対オリックス戦での野茂英雄の記録に並んでいました。

いよいよ95年4月21日に日本プロ野球空前の三振の山が築かれる。

ロッテの本拠地、千葉マリンスタジアムには独特の風が吹いていました。この野球場は投手にとってミステリ―ゾーン。ライト方向から物凄いバックファイアーがバックネットにぶち当たり、その風がホームベースから投手に向ってUターンしてくる。三塁ベース付近では、別角度からの風でファウルボールがフェアグランドから、再び戻って来る。分析不能な厄介な風が吹いていました。しかし、野田は、この厄介な風を自分の味方につけました。

マリンの風を味方につける

ストレートは伸び、もともとシュート回転していた球はホップし、フォークボールはストンと落ちました。

あの日は特に、その風の力を利用したと言う。「一人時間差ですよ」と。ふわっとしたフォークから、スルッとしたフォークをこの風を利用して投げ分けたのです。並みの投手なら、その風にコントロールを乱してしまう、落ちないフォークほど怖いものはない。

元メジャーリーガーのフランコは、アンビリーバブル!でバットにボールがかすりもしない。ボールがスッと消えるみたいだ。初芝もインカビリアも首をひねった。

8回に、初回に唯一ヒットを放った平野謙が2-0からファウルを2球。バットを短く握って新記録阻止の形相。しかし、この平野のバットがボールの下をかいくぐった。この試合18奪三振を奪って記録達成。

「野田浩司投手、奪三振日本記録おめでとうございます」とマリンスタジアムのビジョンに映し出されました。スタンドからは地元ロッテファンからも拍手が沸き起こりました。

延長での三振記録も見たかった

そして18個のまま、9回に入る。先頭の初芝が三遊間を破って出塁。インカビリアのサードゴロで併殺崩れでランナーが残り、次打者の平井がセンター前にヒット、これを中堅手が後ろにそらし同点。その後も、敬遠などで満塁のピンチを向かえましたが、またまた平野謙を2-1から三振を奪い19奪三振。延長になれば参考記録扱いとなる為、仰木監督はここで降板を命じました。

延長となり、リリーフの平井正史が犠牲フライを打たれてオリックスは、サヨナラ負けを喫しました。

勝ち運がなかった

残念ながら、勝ち投手にはなれませんでしたが、紛れもない19奪三振の日本新記録を作りました。

今後、20奪三振の記録を作る投手は現れるのでしょうか。

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