日本プロ野球初物語番外編

日本プロ野球退場第1号はやはりこの男

退場第一号は、名人芸の2塁手苅田久徳。その名人を退場させたのは、「私がルールブックだ」と言い放った二出川延明。

1936年11月20日の阪神対セネタース戦の8回、1点を追うセネタースの苅田が左中間を破って一挙3塁へ。タッチと滑り込みの際どいプレー。3人制の審判だった球審の二出川はやや遅れて、キャンバスに立ち、アウトのジャッジを下しました。苅田は即座に怒り、「どこにタッチしたんだ」と、聞いても「アウト、アウト」と連発するばかり、「貴様、何年アンパイアをやってんだ、何処に目をつけているんだ、しっかり見ろ」と怒鳴った。二出川審判もマスクを片手に「アウトはアウト」と詰め寄り、「興奮するな」こっちも「君こそだ!」としばらくもめた後、ベンチに引き揚げたが、その後試合に出なかった。

苅田は、「僕自身が勝手にやったことで、審判からゲットアウトとは言われていない。だから退場処分だとは思っていない」と事実誤認を主張。真相は今も分かりませんが史上初の退場は苅田の名前が残っています。

苅田は、初のアメリカ遠征中も米国人塁審の判定にソンオブアビッジ「こんちくしょう」と言って退場になりかけ、この時は監督が「それは彼がしゃべることの出来る唯一の英語で、意味も知らないんだ」と弁解ししたことで和解したエピソードが残っています。

初のトレード

何と正式に公式戦がスタートする前にトレード?

巨人の1回目の渡米の時の主将だった二出川延明。そう、苅田との退場事件の球審を務めていた二出川は巨人の選手でした。その二出川と江口行雄の2人が1935年(昭和10)年12月に新チームの名古屋金鯱軍に金銭トレードされました。

後藤修が7球団チームを渡り歩いています。

メガネ捕手の第一号

国鉄(現ヤクルト)の初代捕手の井上親一郎で金田正一の捕手を長らく務めた。その後八重樫幸雄、古田敦也とヤクルト勢に引き継がれています。

初の背番号0番

入団3年間は66番を付けて目が出ずに4年目に0番を付け大活躍。大舞台に強く日本シリーズではMVPを獲得。その後ドラゴンズにトレードで0番に空きがなく4番を背負いましたが、ロッテにトレードされると再び0番を付けました。

尚、00番を付けたのは、1988年の阪神ルパード・ジョーンズ外野手。前年のメジャーのエンジェルスでは13番を付け外国人が最も嫌う背番号を付け、それよりましと思ったのかも。

ファウルは36球打ったらアウト?

子供の頃、そう言い伝えられていました。実際にはそんなルールはありませんが、一体根拠、ルーツは一体どこにあるのでしょう。

一番多くファウルを打った記録は、今のところ、1947年(昭和22年)の松井信勝の19個が最高記録。

初の引退試合を行った千葉茂もファウル打ちの名人でしたが、ここまでは打てなかった。

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