江川卓の8連続三振

1984年7月24日あと1球で江川が選択したのはカーブ

ナゴヤ球場で行なわれたオールスター第3戦。セ・リーグ先発の郭源治(中日)の後を受けて、4回から2番手で登板したのは江川卓(巨人)だった。シーズン前半戦は肩の痛みと戦いながらの登板を続けていた江川だったが、この日はストレート、変化球とも抜群のキレをみせた。

福本豊、蓑田浩二、ブーマーの阪急トリオから三振を奪うと、5回も栗橋茂(近鉄)、落合博満(ロッテ)、石毛宏典(西武)を3者連続三振。空振りの三振を喫した落合は、「数字よりも実際の方が速かった。いま日本で一番速い投手」と絶賛するほどのストレートだった。

実はこの日、江川の予定されていた投球回は2イニングだった。しかし、この日の江川なら1971年に江夏豊が達成した9連続奪三振に並ぶことができると、王貞治監督は続投を決めた。大歓声の中、6回のマウンドに上がった江川は、伊東勤(西武)を変化球で三振に仕留めると、続くクルーズ(日本ハム)にはこの日最速の147キロのストレートで空振り三振。大記録達成まであとひとりと迫った。

そして9人目の打者は大石大二郎(近鉄)。ストレート2球で簡単に追い込んだ江川をみて、誰もが記録達成を確信したに違いない。
キャッチャー・中尾孝義(中日)のストレートのサインに首を振った江川が選択したのは、カーブだった。
この時、天才江川は、とんでもない事を考えていた。

江夏の9連続の記録の上を行く10連続奪三振の記録だ。つまりキャッチャーが取れない位、落差の激しいカーブを投げて振り逃げを狙う事だ。

ところが外角いっぱいのストライクゾーンに入ってしまい、バットの先端に当たった打球は力なくセカンドへと転がった。

しかし、江川がみせた投球は、オールスターゲームにふさわしい、まさに夢の球宴のピッチングだった。

連続奪三振記録江夏豊

■江夏の空前絶後の9連続奪三振

西宮球場で行われたプロ野球のオールスター第一戦で先発した江夏豊。

プロ5年目の若き虎のエースは23歳で円熟期を向かえていた。

初回、先頭打者の有藤道世から9番バッターの加藤英司まで、長池徳二、江藤慎一、土井正博、いうパ・リーグの誇る猛者達、9人すべてを全員三振に斬った。

そして、自分の回ってきた打席で米田投手から3ランホームランを放っている。

さらに、驚くことに、前年のオールスターゲームでも連続5奪三振、ついでにこの次の年にも1つ三振を獲っている。つまり、江夏は3年越しに15連続で奪三振を奪ったことになる。

だだでさえ難しい連続奪三振の記録を、オールスターの最高の舞台で奪うなんて、江夏豊を讃える言葉はそう簡単には見つからない。

日本のオールスターでは3イニングしか投げられない。つまり、江夏は対戦するバッターをすべて三振に獲ったわけでこれ以上のピッチングはお目にかかわれない。江夏のこの記録が不滅の記録と言われる所以である。しかし、江夏の伝説の記録から13年後に普通ではことを考えた男が現れた。

江川卓である。

アルバイト投手カイリー

53年8月のみ6試合登板、無傷の6勝でアメリカに帰ったレオ・カイリー。

この6連勝は、長らく外国人の連勝記録であった。(2015年ソフトバンク、ハンデンバーグが更新)

レオ・カイリーは前年、レッドソックスで7勝を挙げたばかりの注目株だった。

そこで、徴兵されアメリカ陸軍兵士として朝霞基地、横須賀基地にいた。

当時のファームは二軍独自のリーグ戦は行っておらず、二軍はよくアメリカ軍と試合をしていた。その交流試合で全く歯が立たなかったのがカイリーだった。

そこで、投手不足の毎日オリオンズが交渉し、「軍務の勤務時間以外に球場に行くのならば」という条件で軍務部からカイリーの入団の特別許可を取ったのだ。

左腕からのサイドスローでスクリューボールが武器だったという。

関西へ遠征に来たときは、ヘリコプターに乗ってきて球場に直接降りてきたというからスケールが違う。

6試合で3完投うち1完封。45回を投げて32奪三振、防御率1.80

更にバッティングが19打数10安打、打率.526

当時の主力選手の月給が4万~5万だが、レオ・カイリーは1試合で10万の破格の契約を結んでいた。だがこの年の7月に在日米軍の縮小が決まり、カイリーの除隊が早まったことでさっさと帰国してしまった。

あまりの活躍に「米軍のアルバイトは妥当か?」という議論が巻き起こり54年以降、進駐軍のアルバイト登板禁止、となった。

参考文献 ベースボールマガジン社 トレード史

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