優勝決定サヨナラ逆転満塁ホームラン

2001年 9月26日、スコアボードは2-5。残された攻撃は、9回裏の攻撃のみ。

この日、近鉄が勝てば優勝が決まる一戦でした。マウンドにはオリックス、抑えのエース大久保勝信が立ちはだかっていました。              近鉄も、劣勢の中、9回の表に守護神の大塚晶文を出しました。この後、地元大 “優勝決定サヨナラ逆転満塁ホームラン” の続きを読む

沢村栄治

■沢村栄治が伝説になった快投

1934年11月30日の草薙球場での全日本チーム対大リーグ選抜チームとの試合で快投。

9奪三振を奪ったが、7回にルー・ゲーリックにホームランを打たれて、1―0で敗れた。

この頃、日本では、ピッチャーは投込めば投げるほど球威が上がるとされ、この日も、沢村は、多くの球数を投げた上に登板したうえでの快投でした。この頃の、野球は大リーグと日本には、相当のレベルの差があり、実際にこの年の成績も0勝16敗。

わずか17歳の少年は、この投球により伝説の投手となった。

プロ野球が始まった1936年に、プロ初のノーヒットノーランを達成し、巨人を初優勝させた。さらに翌年、2度目のノーヒットノーラン、24勝をあげプロ野球初のMVPを受賞した。

■タイガースとの決戦は3連投

11年12月9日から州崎で行われるタイガースとの三連戦は3連投。

第3戦の前日沢村は日本橋の旅館布袋屋で宿泊。何も飾り付けも、床の間もない部屋に泊まり、肩が痛く眠れない為、女将と女中に馬肉で冷やしてもらって、試合に臨んだ。

ちなみに、この時、第一戦でこの沢村から4回裏にカウント1-3から豪快なスリーランを放った景浦の打球は、左翼スタンドでワンバウンドして海に消えた。(後に太平洋ホームランと形容される)

そして、沢村は決戦の日も5回から登板し勝利投手になった。


沢村の野球人生は順風満帆のはずだった、戦争さえなければ・・・。

■3度の応召

1938年から1940年まで沢村は徴兵され、2年間を棒にふっただけでなく、手榴弾の投げ過ぎで肩を壊した。

復帰後は、マラリアに感染した影響で、球場内で倒れたり、肩を壊した為に、サイドスローに投げ方を変えた。

球速が上がらなかったが、制球力と変化球主体のピッピングに成功し、見事3度目のノーヒットノーランを達成した。

しかし、2度目の徴兵により、復帰後は肩が完全に上がらず、今度はアンダースローで投手を務めた。しかし、幾度となく戦地へ出かけた影響により、身体はボロボロで投手としては成績が上がらなかった。

■最後の試合出場は何と

最後の試合出場は、何と、青田昇の代打としての打席だった。若林の投げた初球を打ち上げ三塁へのファウルフライとなった。これが沢村の最後の試合出場であった。

復員後は巨人を解雇され、飛行機工場で失意のまま働いた。
昭和19年、沢村は驚くべき出会いがあった。景浦との出会いである。ほんの数年前に、ライバルとして戦って大観衆から声援を受けてきた2人が、航空機の脚や燃料タンクの骨組みを作る作業に追われていた。作業の合間の休憩時間に2人は防空壕の中で煙草を吸いながら話し込んだという。

そして、沢村は3度目の応召。フィリピンへ向かう輸送船に乗り込んだ。

10月2日アメリカの潜水艦から魚雷攻撃により帰らぬ人となった。

■かつて沢村栄治の球を受けた故・山口千万石(せんまんごく)捕手の指は、その剛速球で曲がったという

千葉茂によると、スピン効いた快速球、スタルヒンの場合は、ズドンと来る重い球と表現している。

内保氏「沢村のカーブは三段階に曲がり、ドスンと落ちる。しかも三段階目の時は、球が一瞬止まったものだ。」

三校文献 週間ベースボール2009年5月11日号

景浦 将

景浦将は元祖、二刀流の選手。大学野球から、父親の材木商が経営難で家計を助ける為に、職業野球を選んだ。

背番号は6番で当初は外野手であった。しかし、当時の大阪タイガースは内野不足で、三塁手にコンバートされた。

当時の甲子園は今よりも両翼が18.28mも深く、昭和9年にベーブルースを中心とした全米オールスターチームが来た時もホームランが一本も出なかったが、景浦将は楽々とスタンドに打球を放り込んだ。重戦車のような体でスイングすると10本のうち4本は甲子園のスタンドに届いた。

坪内道則は、ホームランを狙った打球は、タバコが一服できるくらい高く上がり加速度がついて落ちてくる。弾丸ライナーになった時は怖くて手が出ないと語っている。

入団年、昭和11年が6月27日、記念すべき、伝統の巨人阪神の第一戦が行われた。試合は乱打戦となったが8対7でタイガースが勝利を飾った。持ち前の長打力を武器に主軸として活躍した。この年の秋のリーグ戦では、投手として、出場して最優秀防御率のタイトルを獲得している。

 沢村が好敵手。東の沢村、西の景浦。職業野球は沢村が投げ、景浦が打ち始まった。

昭和12年、最多打点、投手としては22試合の登板、11勝5敗防御率0.53という成績を挙げた。沢村が0.81に次ぐ2番目の記録である。秋季リーグでは、3割3分3厘、で首位打者。そして、最優秀防御率のタイトルを獲った。すなわち、最優秀防御率と首位打者の二冠である。

日本のプロ野球において、投手と打者のタイトルを獲ったのは景浦のみである

しかし、昭和15年に応召。中国大陸へ派兵された。満期除隊になった景浦は、球界に復帰したが、戦地での日々は強靭な身体を大きくむしばんでいた。復帰1年目は打率2割1分6厘と低迷、守備でも肩の衰えが目立ち、サードから一塁までの送球が不安定になった。結果、景浦はファーストへコンバートされた。戦地での手榴弾の投げ過ぎが原因だとされる。

秋のリーグ戦後、阪神軍、阪急軍、南海軍、朝日軍の選手たちは兵庫県にある川西航空機の工場で働くことになった。昭和19年、景浦は驚くべき出会いがあった。沢村栄治との出会いである。ほんの数年前に、ライバルとして戦って大観衆から声援を受けてきた2人が、航空機の脚や燃料タンクの骨組みを作る作業に追われていた。作業の合間の休憩時間に2人は防空壕の中で煙草を吸いながら話し込んだという。

以後、景浦は解散寸前の職業野球に見切りをつける形で自ら引退。そして、職業野球もこの年の夏季リーグ戦を持って終了となる。

そして、間のなく2度目の応召。台湾、フィリピンと転戦。昭和20年5月20日ルソン島のカラングランで亡くなったとされる。景浦の所属した中隊は、激戦をくり返しマニラ付に籠っていた。やがて彼は黄疸にかかり高熱にうなされていた。そんな彼に食料探しの当番がまわって来た。疾病に冒された身体で

鬱蒼とした密林へ入っていった。そして、二度と戻らなかった。

昭和20年5月20日景浦将は2度目の応召。比島において胸部貫通統創により戦死。

両親へと届けられた白木の箱の中は遺骨ではなく、死亡通知書と小さな石コロが2、3個入っていただけだった。

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