西村 幸生

1937年、同じ宇治山田市出身で職業野球のエースの沢村栄治との対戦を望んで、職業野球の大阪タイガースに入団した。

1937年秋、巨人との開幕戦でリリーフして勝利投手となると、15勝3敗・防御率1.48で最多勝利と最優秀防御率の2冠となり特に巨人に対しては4勝無敗の成績を収めて、職業野球を代表する投手となった。

1937年12月1日から12月7日にかけて春優勝チームの巨人との間で行われた4勝先取の年度選手権決定試合では、登板した3試合全てで完投勝利し、年度優勝の立役者となった。特に、第1戦と最終戦の第6戦では、巨人のエース沢村栄治との投げ合いを制し、シーズン優勝に続いて、ここでも現在でいう胴上げ投手になった。

1938年春にもタイガースは独走で優勝し、前年秋からの連覇を果たした。西村は、このシーズンも主戦投手として活躍し、しシーズンを通して安定した投球を続け、前シーズンに続いて最優秀防御率のタイトルを獲得した。

しかし、1939年になると肩の故障のために度々打ち込まれるようになり、最後の公式戦登板となった11月12日の対巨人戦では、6失点で降板した。

同年末、3年連続とな東西対抗試合出場を終えると契約切れで退団した。

1944年3月に応召し、1945年4月3日、フィリピンのバガンガスで戦死。

1977年、野球界に対する貢献が認められ、特別表彰の野球殿堂入り。

ニッケルカ-ブ(現在でいうスライダー)を武器とし、クロスファイヤが特徴。カーブ、シュートも投げる。 主戦投手として初代巨人キラーとしても知られる。

現在では、「酒仙投手」と呼ばれることも多い。

景浦 将

景浦将は元祖、二刀流の選手。大学野球から、父親の材木商が経営難で家計を助ける為に、職業野球を選んだ。

背番号は6番で当初は外野手であった。しかし、当時の大阪タイガースは内野不足で、三塁手にコンバートされた。

当時の甲子園は今よりも両翼が18.28mも深く、昭和9年にベーブルースを中心とした全米オールスターチームが来た時もホームランが一本も出なかったが、景浦将は楽々とスタンドに打球を放り込んだ。重戦車のような体でスイングすると10本のうち4本は甲子園のスタンドに届いた。

坪内道則は、ホームランを狙った打球は、タバコが一服できるくらい高く上がり加速度がついて落ちてくる。弾丸ライナーになった時は怖くて手が出ないと語っている。

入団年、昭和11年が6月27日、記念すべき、伝統の巨人阪神の第一戦が行われた。試合は乱打戦となったが8対7でタイガースが勝利を飾った。持ち前の長打力を武器に主軸として活躍した。この年の秋のリーグ戦では、投手として、出場して最優秀防御率のタイトルを獲得している。

 沢村が好敵手。東の沢村、西の景浦。職業野球は沢村が投げ、景浦が打ち始まった。

昭和12年、最多打点、投手としては22試合の登板、11勝5敗防御率0.53という成績を挙げた。沢村が0.81に次ぐ2番目の記録である。秋季リーグでは、3割3分3厘、で首位打者。そして、最優秀防御率のタイトルを獲った。すなわち、最優秀防御率と首位打者の二冠である。

日本のプロ野球において、投手と打者のタイトルを獲ったのは景浦のみである

しかし、昭和15年に応召。中国大陸へ派兵された。満期除隊になった景浦は、球界に復帰したが、戦地での日々は強靭な身体を大きくむしばんでいた。復帰1年目は打率2割1分6厘と低迷、守備でも肩の衰えが目立ち、サードから一塁までの送球が不安定になった。結果、景浦はファーストへコンバートされた。戦地での手榴弾の投げ過ぎが原因だとされる。

秋のリーグ戦後、阪神軍、阪急軍、南海軍、朝日軍の選手たちは兵庫県にある川西航空機の工場で働くことになった。昭和19年、景浦は驚くべき出会いがあった。沢村栄治との出会いである。ほんの数年前に、ライバルとして戦って大観衆から声援を受けてきた2人が、航空機の脚や燃料タンクの骨組みを作る作業に追われていた。作業の合間の休憩時間に2人は防空壕の中で煙草を吸いながら話し込んだという。

以後、景浦は解散寸前の職業野球に見切りをつける形で自ら引退。そして、職業野球もこの年の夏季リーグ戦を持って終了となる。

そして、間のなく2度目の応召。台湾、フィリピンと転戦。昭和20年5月20日ルソン島のカラングランで亡くなったとされる。景浦の所属した中隊は、激戦をくり返しマニラ付に籠っていた。やがて彼は黄疸にかかり高熱にうなされていた。そんな彼に食料探しの当番がまわって来た。疾病に冒された身体で

鬱蒼とした密林へ入っていった。そして、二度と戻らなかった。

昭和20年5月20日景浦将は2度目の応召。比島において胸部貫通統創により戦死。

両親へと届けられた白木の箱の中は遺骨ではなく、死亡通知書と小さな石コロが2、3個入っていただけだった。

沢村栄治と景浦将のライバル対決

景浦将の豪打伝説

広い甲子園、当時は今よりも両翼が18.28mも深く、昭和9年にベーブルースを中心とした全米オールスターチームが来た時もホームランが一本も出なかったが、景浦将は楽々とスタンドに打球を放り込んだ。重戦車のような体でスイングすると10本のうち4本は甲子園のスタンドに届いた。

坪内道則は、ホームランを狙った打球は、タバコが一服できるくらい高く上がり加速度がついて落ちてくる。弾丸ライナーになった時は怖くて手が出ない。

昭和11年12月。洲崎球場で巨人―阪神の優勝決定戦が行われた。

第三戦、景浦は沢村から東京湾に入るとまでいわれた大ホームランを見舞う。

この試合、他にもセンターオーバーの2塁打、レフト前ヒットと沢村を滅多打ちにした。

景浦は最初の記念すべき巨人―阪神でもホームランを放っている。6月27日甲子園球場の4回、沢村からレフトスタンドに叩き込んだ。

この年(昭和11年)景浦は、投手としても活躍。9試合に登板し6勝0敗、防御率1.05の成績を残し、最優秀防御率、最高勝率を残している。

東の沢村、西の景浦。職業野球は沢村が投げ、景浦が打ち始まった。

12年は 沢村が24勝4敗 防御率0.81 最高殊勲選手、最高防御率、最優秀勝率の三冠。

そして、5月1日のタイガース戦で2度目のノーヒットノーラン。

この後、3度目のノーヒットノーラン。

景浦は 打点王。そして投手で 11勝5敗 防御率0.93でローテーションの一角を守った。

最後の試合はタイガース戦で代打

昭和18年10月24日、洲崎球場でのタイガース戦。2-2で迎えた11回表、1死1,2塁。

6番青田昇に代わって沢村が打席に入った。

「じゃじゃ馬」とよばれた鼻柱の高い青田が素直に従ったのは、沢村の打者としての資質がしのばれる。結果は三塁ファールフライだった。

結果的にこの試合が沢村栄治の最後の出場となった。

ライバル、運命の出会い

秋のリーグ戦後、阪神軍、阪急軍、南海軍、朝日軍の選手達は兵庫県にある川西航空機の工場で働くことになった。昭和19年、景浦は沢村栄治と出会った。

ほんの数年前に、大観衆の前でライバルとして戦ってきた2人が航空機の脚や、燃料タンクの骨組みを作る作業に追われていた。

作業の合間の休憩中に防空壕の中で、煙草を吸いながら話し込んでいたという。

しかし、昭和19年10月2日、沢村に三度目の赤紙が届いた。

11月13日、京都伏見連隊に入営。12月2日、門司港からフィリピンに向かう途中、東シナ海で敵の魚雷攻撃を受け戦死した。享年27歳。

景浦将は、昭和20年5月20日 2度目の応召

比島において胸部貫通統創により戦死。

もちろん遺骨は無い。死亡通知書と白木の箱に入っていたのは、遺骨の代わりの小さな石コロだった。

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