今では当たり前になった逆シングルを編み出した。
巨人、第一次黄金期の千葉茂との二遊間は「水も漏らさない」と言われ、特に白石の三遊間の守備には定評があった。これは、元々、一塁手だった白石が普段から逆シングルで送球を受けることが度々あり、内野手の守備でもとっさに出ることがあった。
当時の野球は、内野手は両手で捕るのが絶対的で、片手で捕る事はしなかった。しかし、1936年のアメリカ遠征でヒントを掴み、逆シングルで捕った方が守備範囲が広くなると考えていた。プィリピン遠征で披露すると観客が沸いたため、本格的に取り入れたという。
一説には、生まれつき右目の視力が弱かった為、逆シングルで捕る事になった要因といわれる。
1949年のシーズンオフに広島カープが誕生し、広島が故郷の白石が入団し、背番号1を与えられた。
ほとんどの観客は、巨人の黄金期を支えたスターを見ようと球場に足を運んだ。その後も、弱小球団を牽引し、何度も球団存続の危機を救った。
1950年の3月16日の中日戦には球団初の1号本塁打を放った。
学校のグランドで公式戦。
当時は、ギャラの前払いをしてくれるものがあり、観音寺球場(広島市営球場)以外にも、河川敷、学校のグランドでも試合が行われた。それなりの広さがある場所ならどこでも公式戦が行われた。グランドとの観客席の間にロープを張られることもあり、相手チームと揉めることもあった。
53年4月1日の尾道高校のグランドで行われた大洋松竹ロビンス戦では、白石の打球をホームランにしてやれとばかりに、観客がロープを前に出し、ホームランにしてしまった。その後も判定が変わらず、これは「ナワホームラン」と呼ばれた。
1950年6月7日の三次市の土手で行われた試合でも、川土手を急遽、観客席にして公式戦を行い広島が6本塁打28安打を放ち勝利したが、チーム一試合の最多安打として未だにセリーグの記録として残っている。
守備の人のイメージがあるが、50年には一試合2本塁打も放ち、20本塁打打率.304でベストナインにも選ばれた。
翌51年も4試合連続ホームランも記録し、12本塁打.288を記録した。
1956年8月12日、対巨人戦での生涯最高のビックプレー。
広島の1点リードで迎えた9回裏、巨人の攻撃は二死、一二塁でバッターは川上哲治。ここで川上は痛烈な打球を三遊間に放ちレフト前に抜けるかと思われた打球を白石が逆シングルで掴んだ。一塁に投げるフェイントをして、オーバーランをした三塁走者を刺し、試合終了となった。
実はこの年から勝率三割を切ったチームは解散するという規定があり、当時、弱小球団であった広島はこのゲームを落としていたら解散するところであった。この年、最下位に落ちた松竹ロビンスは勝率.288で大洋と合併している。
結果的に球団消滅を救ったビックプレーであった。
球界に名高い名手と言われるが、失策数はプロ野球史上断トツの646個だが、当時のグランド状況の悪さ、また、守備範囲の広さから生まれた失策も多かったのも要因である。
王シフトを編み出した。
引退後は、広島の監督も務めた。
64年には王シフトを編み出している。65年には入団した、衣笠祥雄を内野手に転向させた。
また、ゼネラルマネージャーとして広島財界のトップ東洋工業の松田恒次と交流を持ち、広島市民球場の建設、日南キャンプの誘致、独立採算の補強費の調達にとどまらないチーム作りを行った。当時の口癖は勝率5割であった。
引退後は、解説者を務めたが巨人の川上監督からの要請で、ヘッドコーチとして再び巨人のユニフォームを着ることとなりV9に貢献した。
85年に野球殿堂入り、2000年没。