熊本工業で当時ピッチャーだった川上哲治とバッテリーを組んでいた。
甲子園の決勝で、呉港中学と対戦した。エースは後のミスタータイガース藤村富美男。熊本工業は藤村に前に僅か2安打、14奪三振を喫し0-2で涙を飲んだ。吉原は5年制度の中等学校において、4年生にもかかわらずチームのキャプテンに選ばれた。それだけ、人望とリーダーシップがあった。
昭和13年吉原は川上と共に巨人軍に入団。当時、フロントにいた鈴木惣太郎が吉原の練習を見るために、熊本の水前寺球場に出かけた時にピッチャーをしていた川上のバッティングに注目し、スカウトした。職業野球の発展と、大日本東京野球倶楽部のアメリカ遠征のマネージャーをしていた鈴木惣太郎は、スカウトも兼任していた。この鈴木の意向もあり、吉原と川上は巨人軍に入団した。
川上は「今の自分があるのは、吉原のおかげ」とコメントしている。
二人は、丁度、沢村栄治が二度目の入隊と入れ代わりで入団した。他にも、千葉茂、楠木安夫、内海五十雄が入団し、花の昭和13年組の異名をとった。内海五十雄は現在の内海哲也の祖父に当たる。2人供、背番号は26番である。
4月29火公式戦である春のリーグ戦が開幕。2塁手に三原脩、三塁手が水原茂、右翼手に中島治康、投手はビクトル・スタルヒンとう豪華な顔ぶれの中、新人でただ一人、吉原がスタメンに選ばれた。この年、吉原は大先輩達に臆することなく、持ち前の太い大声で守備位置の指示を出した。6月19日のライオン戦では左翼スタンドにプロ初ホームランを放った。彼は典型的なプルヒッターで、打球はレフト方向が殆どだった。三振も多かったが、バットの芯で捉えた打球の早さには定評があった。
また、守備でも地肩が強く、捕球から投げるまでのモーションが小さくて俊敏な上、送球も正確だった。
彼は、常に闘志に漲るプレーを貫いた。身長は170センチ足らずであったが、野生児を思わせる溌剌とした全力プレーは目の肥えた野球ファンを唸らせた。
後楽園球場のある試合で、ファウルフライを追いかけて、フェンスを恐れることなく一直線に追いかけた吉原はダックアウト上のコンクリート製の天井に頭を強打、そのままベンチの中へ倒れこんだ。しかしボールはミットの中にあった。頭部からは血が吹き出ていたが吉原は「取った、取った」と言うだけで、頭部の怪我など気にせず、その後も包帯を巻いてプレーを続けたという。
黄金バッテリーが誕生
昭和14年から職業野球は1リーグ制となった。充実した戦力を誇る巨人軍は難的を抑えて優勝。川上、吉原の活躍によって第一次黄金時代を迎えた。
昭和15年、中国戦線から一人の男が帰ってきた。沢村栄治である。こうして、沢村―吉原という黄金バッテリーが誕生した。
吉原にとって、沢村は憧れの存在であり、その球を受ける事は捕手として無情の喜びであった。沢村も吉原を可愛がりよく食事に連れて行ったという。
この年の秋、「球団の名称の日本語化」「英語の禁止」などの条項が定められ、大阪タイガースは「阪神軍、東京イーグルスは黒鷲」と球団名が変貌していた。ジャイアンツも「巨」の一文字だけとなった。プレーボールは「試合始め」タイムは「停止」など。
ある時、球団の激励会で「昨日まで、キャッチャーをやっていた吉原正喜です。が今年から捕手をやらせて頂きます」と冗談をと飛ばした。
打者走者よりも早く一塁まで到達した
吉原は捕手としては珍しく俊足であり、昭和15年のシーズンは30個の盗塁を決めた。更に守備において、一塁カバーの時などは、レガース、プロテクターなどの防具をつけたまま走り、打者走者よりも早く一塁まで到達したというエピソードが残っている。
同年11月29日から第一回となる日本野球東西対抗戦が行われた。そして最終日は甲子園で行われ、吉原は見事このシリーズの最高殊勲選手に選ばれた。しかし、翌日の新聞は小さな見出しだった。何故なら、同日、真珠湾攻撃により、対米戦に突入したからだ。
そして、吉原も応召される。
彼はビルマ戦線に送られた。ビルマからの手紙には、
「やってるだろうな、負けるな、スタチャン、フジ、エイチャンがんばれ」と書かれている。スタチャンとはスタルヒン、フジは藤本英雄、エイチャンは沢村栄治の事である。ビルマに駐屯地で川崎徳次と再会している。川崎の存在を知って、吉原がわざわざ訪ねて行った。初年兵の川崎へ餅や飴を持って行き、親身になって励ましたという。川崎は重度の痔疾に悩まされており吉原が何処からか、薬を調達したという。
「帰ってもう一回野球をやろう」と何度も語ったという。
もう一人、ビルマで再会した人物がいる。内堀保である。内堀は同じ巨人軍の捕手の先輩であった。
内堀が豚を肩に担いでいた兵士を見つけた。そして、「内堀さんじゃないですか」と笑顔で話しかかけて来た。それが吉原だった。偶然の再会を喜び合う二人だったが、その時は余り時間がなく、短い会話のみで別れたという。
部隊長になった吉原とインパール攻略の為の道路整備に明け暮れていた内堀は、再度、吉原を見つけた。内堀が声を掛けると、嬉しそうに笑を浮かべて近づいて来たという。その夜のテントの中で二人は、内堀が隠し持っていたお酒を、ちびちびと呑んだ。吉原は「明日からインパール攻略へ向かう」と話した。
吉原の部隊はインドからビルマへ戻り、チンドウィン河を小さな船で下って撤退する事になったが部隊長であった彼は病人から乗船させ自ら残った、後、徒歩で退却を始めた。だが、彼自身もマラリアにかかり、筋骨隆々だった身体は衰弱し、別人の如くやせ細ったという。
10月10日、戦死広報の記述に拠ればウントにおいて没したとされる。
享年25歳。その遺骨は、沢村栄治、景浦将、と同様一片たりとも戻らなかった。