景浦 将

景浦将は元祖、二刀流の選手。大学野球から、父親の材木商が経営難で家計を助ける為に、職業野球を選んだ。

背番号は6番で当初は外野手であった。しかし、当時の大阪タイガースは内野不足で、三塁手にコンバートされた。

当時の甲子園は今よりも両翼が18.28mも深く、昭和9年にベーブルースを中心とした全米オールスターチームが来た時もホームランが一本も出なかったが、景浦将は楽々とスタンドに打球を放り込んだ。重戦車のような体でスイングすると10本のうち4本は甲子園のスタンドに届いた。

坪内道則は、ホームランを狙った打球は、タバコが一服できるくらい高く上がり加速度がついて落ちてくる。弾丸ライナーになった時は怖くて手が出ないと語っている。

入団年、昭和11年が6月27日、記念すべき、伝統の巨人阪神の第一戦が行われた。試合は乱打戦となったが8対7でタイガースが勝利を飾った。持ち前の長打力を武器に主軸として活躍した。この年の秋のリーグ戦では、投手として、出場して最優秀防御率のタイトルを獲得している。

 沢村が好敵手。東の沢村、西の景浦。職業野球は沢村が投げ、景浦が打ち始まった。

昭和12年、最多打点、投手としては22試合の登板、11勝5敗防御率0.53という成績を挙げた。沢村が0.81に次ぐ2番目の記録である。秋季リーグでは、3割3分3厘、で首位打者。そして、最優秀防御率のタイトルを獲った。すなわち、最優秀防御率と首位打者の二冠である。

日本のプロ野球において、投手と打者のタイトルを獲ったのは景浦のみである

しかし、昭和15年に応召。中国大陸へ派兵された。満期除隊になった景浦は、球界に復帰したが、戦地での日々は強靭な身体を大きくむしばんでいた。復帰1年目は打率2割1分6厘と低迷、守備でも肩の衰えが目立ち、サードから一塁までの送球が不安定になった。結果、景浦はファーストへコンバートされた。戦地での手榴弾の投げ過ぎが原因だとされる。

秋のリーグ戦後、阪神軍、阪急軍、南海軍、朝日軍の選手たちは兵庫県にある川西航空機の工場で働くことになった。昭和19年、景浦は驚くべき出会いがあった。沢村栄治との出会いである。ほんの数年前に、ライバルとして戦って大観衆から声援を受けてきた2人が、航空機の脚や燃料タンクの骨組みを作る作業に追われていた。作業の合間の休憩時間に2人は防空壕の中で煙草を吸いながら話し込んだという。

以後、景浦は解散寸前の職業野球に見切りをつける形で自ら引退。そして、職業野球もこの年の夏季リーグ戦を持って終了となる。

そして、間のなく2度目の応召。台湾、フィリピンと転戦。昭和20年5月20日ルソン島のカラングランで亡くなったとされる。景浦の所属した中隊は、激戦をくり返しマニラ付に籠っていた。やがて彼は黄疸にかかり高熱にうなされていた。そんな彼に食料探しの当番がまわって来た。疾病に冒された身体で

鬱蒼とした密林へ入っていった。そして、二度と戻らなかった。

昭和20年5月20日景浦将は2度目の応召。比島において胸部貫通統創により戦死。

両親へと届けられた白木の箱の中は遺骨ではなく、死亡通知書と小さな石コロが2、3個入っていただけだった。

    江川と掛布の怒りの敬遠

    読売ジャイアンツ捕手の阿部慎之助の父親は掛布の習志野高時代の同級生で、同じく野球部に所属していた。高校時代は阿部の父親が4番を打っており、掛布は3番打者だった。今でも阿部の父親とは深い親交があり、阿部が子どもの頃から掛布に憧れていたのはこの縁に由来する。

    千葉育ちもあってか、千葉出身の長嶋茂雄のことを敬愛している。デビューした年の5月21日の巨人戦でプロ入り初安打を記録したとき、掛布は三塁を狙ったが長嶋にタッチアウトされた。しかし、「憧れの長嶋」にタッチされたことがうれしくてたまらなかったという。

    ある時、スランプに陥っていた掛布は長嶋に電話でアドバイスを求めた。するとミスター曰く「そこにバットある?あったら振ってみて」。首をかしげながら掛布は素振りの音を電話越しにミスターに聞かせた。音を聞いたミスターは「雑念を取り払え、無心で振れ!」と言う。今度は無心でバットを振り、音を聞かせる。すると「そうだ、いまのスイングだ。忘れるな!」と言い、電話は終わった。その後掛布はスランプを脱したという。

    プロ入り後、江川は掛布に対する初球は必ずカーブを投げた。しかし、掛布はそれを見送り、ストレートを待って勝負したという。また、掛布によると一度江川が自分を敬遠したときにはその球が異常に早く、「本当は勝負したい」という意思を感じたという。

    82年9月甲子園、1点のビハインド、2アウト走者2塁、藤田監督から 敬遠を命じられた江川は立ち上がった捕手のミットめがけて、快速球を投げた。掛布・江川が今語る、まるで怒りを吐き出すようなその敬遠快速球に込められていた。

      月に向って打て

      大杉 勝男

      荒い打撃と三振が目立ち、本塁打は出るものの低打率に苦しむ。転機となったのは1968年9月6日のオリオンズ戦、第4打席まで無安打と結果を残せないまま試合は1対1のまま延長戦に突入し、延長11回裏に打席が回ってきた。

      東映の打撃コーチだった飯島滋弥は大杉に、「月に向かって打て!」というアド “月に向って打て” の続きを読む

        名スカウト片岡宏雄

        ヤクルトスワローズの編成部調査役。

        引退後、ドラフト会議を題材にしたコラムを産経新聞に掲載したのが評判を呼び、その後ヤクルトスワローズのスカウトとなる。

        古田敦也、土橋勝正、高津臣吾を発掘し、日本一の球団となる。特に、古田のドラフト指名の裏話、尾花高夫に会いに行く時に高野山の麓の山の上ある実家まで出かけて、交わした言葉のやりとり

        新日鉄堺の監督が「練習が好きすぎて困っとるんや」という、エピソード。

        度会博文は草野球をプレーしていた時ににつけてドラフトで取った、地味な選手が出てくる。しかし、良かったのは、ヤクルトいう球団の体質、ほのぼのした球団の環境。、また、

        関根、若松監督といったほのぼのとした監督のしたでプレーした事。やはり、球団を強くするには、球団の環境、入団した選手は育てる環境、コーチ、監督が大事だということがわかる本です。

        球が指先にひかからないピッチャーはあ駄目。ピッという音がする。

        肘が柔らかく指先の使い方で見抜く。

        バッターは球のつきで見抜く。いろんな球を投げるピッチャーのタイミングを上手くとっていく事。

        息をはずませながらやってきて、「尾花、俺はどうしても君が欲しいんだ」

        意外にも、著者が入団したのは中日ドラゴンズだったのには驚きです。

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