伝説の延長28回

42年5月24日 後楽園球場で行われた大洋―名古屋の激闘。

公式記録員の記述では「折からの五月晴れの日曜日を利して大観衆」とあるが同日の六大学野球が6万人集まることを考えれば、当時のプロ野球は、1万人を超えることなどほとんどない。5000人が妥当なところだろう。

当時のプロ野球はスピーディーで早く終わるのが売りでこの日も、3試合で4チームの選手が観られる。朝日―名古屋 巨人―大洋 大洋―名古屋の変則トリプルヘッダーが組まれていた。

この日の第三試合は午後、2時40分にスタートをした。

両軍の先発は大洋が野口二郎で2年連続の33勝のスーパー投手。一方の名古屋は後のミスタードラゴンズの強打者、西沢道夫だった。この頃は投手。まだ未完成の20[O1] だった。

2回に名古屋が大洋のショート濃人の野選で1点を先取。

3回も満塁のピンチを招き同じショート濃人の失策で2点目を失った。この日の野口はいつもの球威がなかった。実は、前日の朝日戦で1安打完封、3日前の阪神戦でも完封勝ち、そしてこの日の1戦目にも代打で出場していた。

相手の西沢はカーブのブレーキがよく、速球も走っていた。

6回に試合が動いた。1死2,3塁のチャンスで浅岡が3塁戦を破る2塁打で同点。

続く7回も大洋は無死1、2塁のチャンスで佐藤が送りバントをしたが、これが悪送球で2人の走者が生還し逆転した。得点は4-2で大洋が2点リード。

9回、名古屋の攻撃も1死で、強打者小鶴を迎えた。ここで同点ホームランの期待もあったが1塁ゴロに倒れ、もうこれまでか、と誰もが思った。

ここで3回に2塁打を放っている5番の古川が、2ボールからカウントを取りに来た3球目のストレートをフルスイングすると、打球は左中間に一直線。土壇場で同点となった。当時の後楽園球場は両翼が78mと狭かったが左中間は109mもあった。

この時点で野口が141球、西沢は125球を投げていた。

延長に入り、18回まで両チーム3安打ずつしか打てず併殺が2つに牽制、盗塁死もあり点が入らない。打者のスイングも脚力も鈍く選手は疲れていた。

大洋は、直前の巨人との試合をこなし、25分後にまたグランドに出ており、一方の名古屋も第一試合で延長戦を戦っていた。選手の疲労は極限に達していた。

19回以降も点が入らない。世界記録にあと1イニングに迫った、26回、2死1塁から西沢が右中間を痛烈に破った。1塁ランナーがホームに向かって走る、大洋セカンドの名人、苅田が中継からバックホーム。走者を刺した。その裏、西沢が3者凡退に抑え世界記録タイ。

世界新記録を超え、28回の表も4人の打者を送ったが無得点。その裏も1塁にランナーを出したが、野口がショートゴロを打ち2封されスリーアウト。

ここで球審の島秀之助は午後6時27分、4対4の日没引き分けを宣言した。ここにプロ野球史上いや大リーグにもないとてつもない延長試合28回の記録が誕生した。

後楽園球場はまだ、少し明るさが残っていた。

ちなみにこの試合、故伊東一男氏が観戦していた。ドラフトのアナウンスでおなじみの元パリーグ広報部長だ。

9歳のこの少年は、沢村栄治が肩を壊してメッタ打ちにされる悲しい姿を見てきたし、右ピッチャーの沢村が左バッターボックスに入るのが不思議だったと言う。9回2死になったので、親父と一緒に帰ろうとして腰を上げた、その後、吉川清蔵のツーランホームラン。スコアボードに2の数字は入るが、何枚かある数字のうちの、ゆがんだ2の数字が入った。このゆがんだボードが入ると、いつも何かが起きるという。当時は場内アナウンスもあったかないのかの状態で、スコアボードも16回以降は小さくなって何回までやったのかよく分からなかったと語っている。

試合時間3時間47分。野口二郎344球、西沢道夫311球。

野口は「実は二日酔いだったが回を追って気合が入りあとはいつも通り気合が入った。」

西沢は後日、「若かったんだね、最後の方は無意識で投げていたんだろうね。」と語った。

昔のプロ野球はみんな若かった。

参考文献

B・B・M MOOK131 ベースボールマガジン社 スポーツの20世紀


    パリーグDH制ありえない投手の勝ち越しホームラン

    ◆1991年 5月29日 近鉄バッファローズ対オリックス戦での出来事。

    2点ビハインドの、土壇場の9回の表に、高橋智が劇的な逆転3ランホームランを放ちました。

    これで、シュルジーで逃げ切れる。土井監督は確信しました。

    そのため、9回裏の守り固めにDH石嶺の代走飯塚をファーストに入れ、これでDHは無くなっりました。レフトに山森を入れ、レフトの佐藤和に代えシュルジーを6番に入れました。  当時の監督は、土井正三でセリーグ出身の監督にとって、ピッチャーを打順に組み込む事に何の抵抗もありませんでした。                             これが、後のありえない出来事を生むことになります。

    「6番にピッチャーのシュルジーが入ります」のアナウンスにスタンドはざわめきました。

    そして、9回裏の近鉄の攻撃が始まったのです。

    リリーフの シュルジー は、先頭のトレーバーにヒットを許します。ブライアントは三振に打ち取りましたが、石井にレフト前に運ばれ、更にワイルド・ピッチも重なり、2,3塁のピンチを向かえました。                                  ここで、鈴木貴久に2点タイムリーで同点となり、試合は振出しに戻りました。

    延長10回の表裏は両チームとも無得点。11回の表は6番シュルジーに打順が回ってくることになります。

    当の本人シュルジーは、「代打が残っているからお役御免だな、」くらいの気持ちだったらしい。

    ところが、前の打者が倒れると、土井監督がネクスト・バッターズサークルを指しています。

    「シュルジー、行け」

    これには、ベンチは沸いた。

    「オーケー、オーケー」そう言って適当なバットを持ってバッターボックスに入りました。 グリップエンドには27の刻印。キャッチャーの中島聡のバットだったのです。

    当時のパリーグの規定では、4時間を超えて新しいイニングに入らない。11回裏が最後のイニングになるはずでした。

    2アウトランナーなし、先頭がシュルジーなら思いきって代えられる。しかし、2アウト、ランナー無しなら、得点する可能性は少ない。それよりも、裏の失点の無い可能性に賭けたのです。

    オリックスベンチは盛り上がりました。

    「象印の看板に当ててみろ」

    土井監督も大声で叫んでいた。

    「スイング、ホームラン」

    近鉄の守護神、赤堀は当時、パリーグ屈指のリリーバーでした。

    初球、ボールになるつもりでスライダーを投げると

    シュルジーは、何も考えずに、フルスイングをした。

    次の瞬間、打球は左中間スタンドの照明塔の“象”の鼻っつらを直撃して、場外へ消えて行ったのです。

    1975年、パリーグでDH制が採用されて、初めてのピッチャーによるホームラン。そして、シュルジーの日本プロ野球における唯一の打席がこのホームランでした。

    野球とは筋書きのないドラマなのです。

    画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Don_Schulze.jpg

    出典 Wikipedia A級ケーンカウンティでのコーチ時代

      プロ野球の復興

      敗戦から丁度、100日目の昭和20年11月23日、明治神宮球場で行われた東西対抗戦で日本のプロ野球は再興の道を歩み始めた。

      打ちひしがれた日本の焦土に希望の球音が響いた。

      1時11分、杉浦正一郎の右手が上がり日本プロ野球の復活を告げる東西対抗が始まった。

      日本プロ野球の父、正力松太郎、読売新聞社長をはじめとする経営者たちは、終戦の混乱の中で身動きが取れず、後楽園球場、甲子園球場も軍の管理下に置かれ、グランドも畑、兵器の保管場所にされ使えなかった。

      それでもプロ野球再建のために奔走する、鈴木龍二(元、セリーグ会長)と鈴木惣太郎はGHQと交渉にあたる。そして西宮球場に奇跡的に戦災や接収で逃れていた、野球用品、ボール4ダース、バット8本、グラブ5個、ミット1個を東京まで運び、東西対抗戦に使われた。鶴岡一人は「アメリカが進駐して来るのならば必ず野球も再開されるはずだ」と考え、除隊後すぐに堺市中百舌鳥の南海合宿所に住み込みチーム再建に奔走した。

      また、同じく西宮球場に保管されていた、戦前の阪急の濃紺ユニフォームがあった。それを借り受け、阪急のロゴを剥がし、プロ野球チームとしてのろしを上げたのがセネタースであった。(日本ハムの前身)

      NHKラジオの名アナウンサー志村の第一声は「久しぶりに本当に久しぶりに職業野球の実況をお送りいたします」そして、復興の第1球投じたのがのちにプロ野球初の完全試合をやる藤本英雄。

      選手の多くが復員組で、ろくに練習も出来ず、制球スピードも不足し乱打戦となり19対15で東軍が勝利。

      選手は戦闘帽をかぶり、ユニフォームはバラバラ、大下は軍靴を履いてプレーしていた。

      焦土の日本でゼロから始まった東西対抗。それはまさに、華々しい国民的娯楽、プロ野球再開の幕開けであった。

      参考文献 BBM MOOK スポーツ20世紀

        戦争状態になる直前の出来事

        1941年の戦争状態になる直前の出来事

        日米間の条約が失効状態になった1941年。戦時色が強くなり、選手が戦地に駆り出され、世間に「野球どころではない」という雰囲気が高まりました。弾圧が目に見えるようになっていた時代の話しです。


        この頃、球場にくる観客よりも球場の隣にある、戦車博覧会へ行く客の方が多かったという。連盟は一計を案じ公式戦を一度打ち切って、全球団が集結したトーナメント戦を企画しました。

        甲子園球場には開場始まって以来の大観衆が集まり、関係者は皆、驚き「万歳」と叫んだそうです。

        ところが更に、驚いたのが、このトーナメント大会の為に、アメリカのナショナル、アメリカン両リーグからわざわざ優勝トロフィーが贈られて来ていた事です。

        まさに、国と国が戦争状態にこれからなろうとしていたこの時期に日米のプロ野球の当時者達は、野球興隆の為に手を取り合っていたという。

        この出来事に、両国の野球に対する暖かい気持ちを感じました。

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