◆1991年 5月29日 近鉄バッファローズ対オリックス戦での出来事。
2点ビハインドの、土壇場の9回の表に、高橋智が劇的な逆転3ランホームランを放ちました。
これで、シュルジーで逃げ切れる。土井監督は確信しました。
そのため、9回裏の守り固めにDH石嶺の代走飯塚をファーストに入れ、これでDHは無くなっりました。レフトに山森を入れ、レフトの佐藤和に代えシュルジーを6番に入れました。 当時の監督は、土井正三でセリーグ出身の監督にとって、ピッチャーを打順に組み込む事に何の抵抗もありませんでした。 これが、後のありえない出来事を生むことになります。
「6番にピッチャーのシュルジーが入ります」のアナウンスにスタンドはざわめきました。
そして、9回裏の近鉄の攻撃が始まったのです。
リリーフの シュルジー は、先頭のトレーバーにヒットを許します。ブライアントは三振に打ち取りましたが、石井にレフト前に運ばれ、更にワイルド・ピッチも重なり、2,3塁のピンチを向かえました。 ここで、鈴木貴久に2点タイムリーで同点となり、試合は振出しに戻りました。
延長10回の表裏は両チームとも無得点。11回の表は6番シュルジーに打順が回ってくることになります。
当の本人シュルジーは、「代打が残っているからお役御免だな、」くらいの気持ちだったらしい。
ところが、前の打者が倒れると、土井監督がネクスト・バッターズサークルを指しています。
「シュルジー、行け」
これには、ベンチは沸いた。
「オーケー、オーケー」そう言って適当なバットを持ってバッターボックスに入りました。 グリップエンドには27の刻印。キャッチャーの中島聡のバットだったのです。
当時のパリーグの規定では、4時間を超えて新しいイニングに入らない。11回裏が最後のイニングになるはずでした。
2アウトランナーなし、先頭がシュルジーなら思いきって代えられる。しかし、2アウト、ランナー無しなら、得点する可能性は少ない。それよりも、裏の失点の無い可能性に賭けたのです。
オリックスベンチは盛り上がりました。
「象印の看板に当ててみろ」
土井監督も大声で叫んでいた。
「スイング、ホームラン」
近鉄の守護神、赤堀は当時、パリーグ屈指のリリーバーでした。
初球、ボールになるつもりでスライダーを投げると
シュルジーは、何も考えずに、フルスイングをした。
次の瞬間、打球は左中間スタンドの照明塔の“象”の鼻っつらを直撃して、場外へ消えて行ったのです。
1975年、パリーグでDH制が採用されて、初めてのピッチャーによるホームラン。そして、シュルジーの日本プロ野球における唯一の打席がこのホームランでした。
野球とは筋書きのないドラマなのです。
出典 Wikipedia A級ケーンカウンティでのコーチ時代