燃えよドラゴンズの誕生秘話

以前から探していた、燃えよドラゴンズ(1974年盤)のレコードをやっと探し出し購入しました。野球ファンなら、一度は聞いたことがあるでしょう。

1番高木が塁に出て、2番谷木が送りバント・・・。

しかも、今では入手困難な板東英二の歌った正真正銘の最初のバージョンです。

当時、大学生だった山本正之が音楽業界を目指していたが挫折し、この当時、20年ぶりの優勝に向って優勝争いをしていた、ドラゴンズの試合中継をラジオで、聞いていたところ「藤波行雄がタイムリーヒットを打った時」に奮起したという。

藤波は山本と同じ年で、ルーキで活躍中だった。「彼は活躍しているのに自分は何をやっているんだ」と少々嫉妬していた。「よし、俺もやろう」と思い立ち貯金箱を壊したら、小銭が出てきて、それで、とりあえず銭湯に出かけようと思った。

その後、銭湯の入浴中に「一番高木が塁に出て~」というフレーズが出てきた。そして打者部分、下宿にて全体を2時間ほどで完成させ、曲名はブルースリーの映画「燃えよドラゴン」から付けられ、早速、CBCラジオにデモテープを送りました。

当時、CBCラジオでの「ばつぐんジョッキー」の月曜のパーソナリティは元、中日ドラゴンズOBの板東英二が担当。板東英二は引退後、ドラゴンズの解説を担当していましたが、そのトークが面白いと評判で、当時としては異例の解説者から、ラジオのディスクジョッキーへ転身しました。

このデモテープを番組内で放送したところ、問い合わせが殺到し、生放送で同じ曲を2度流すのも異例だが、3時間の放送中に5回もかけたという。

板東英二が、仕事で海外から船で横浜港に降り立った時に、レコード会社の人が待っており、その足でレコーディングしたという。当時、レコードにするのに2か月かかったが、急遽2週間で制作され、シーズン終盤の1974年10月10日にリリースされました。

このレコードは40万枚を超えるヒットとなりましたが、この1974年(昭和49年)はオイルショックで材質のポリ塩化ビニールが不足していたこともあり、生産が追い付かなかったそうです。

この歌の応援もあってか、この年、ドラゴンズは20年ぶりの優勝を成し遂げました。

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