背番号の歴史は1929年4月18日。
ヤンキースはヤンキースタジアムの開幕戦に背中に番号の入ったユニフォームで登場。それまで袖に番号を付けた球団はあったが、背中は初めてだった。番号はベストメンバーの打順を元に作成されており、3番はベーブ・ルース、4番はルー・ゲーリックであった。8番を打つキャッチャーは3人起用するので、投手は11番以降である。日本で言う、エース18番はムーアというリリーフ投手がつけていた。
日本チームが初めての第一回アメリア遠征を行った時の背番号もアメリカ方式で、沢村栄治が17、スタルヒンが18。帰国後に完全にアメリカ方式になり、投手が10番台で沢村が14番で(後に永久欠番)でスタルヒンが18番を背負い看板ナンバーとなる。
巨人軍は、36年に2度目のアメリカ遠征を行い、帰国後に藤本定義が監督に就任。社会人きってのエース前川八郎を入団させ背番号18を与えた。その頃の大リーグには18番の好選手は全くいなかったのでアメリカからの影響は全くないと言える。
タイガースには、七色の変化球を駆使し、エースとなった若林忠志が18番を背負っていた。
当時のタイガースは、背番号をイロハの順につけていた。1番、伊賀上良平 2番、小川年安、3番、岡田宗芳。もし全員この方式なら、若林は5,6でないといけない。よって、理由は不明である。但し、若林は当時、社会人野球のスターで、もしかしたら本人の希望かもしれない。
36年セネタースの18番は野口明。当時の球界で沢村と並ぶ好投手。兵役に入ると、弟の二郎が入団。こちらも甲子園優勝投手でエリートで、兄の18番を引き継いだ。1年目からいきなり33勝。兄が復員してからも18番をつけて、通算237勝を挙げている。
巨人は前川が退団すると、39年中尾輝三が継いだ。
野口二朗の18番が一番輝いた試合は、語り継がれる延長28回を投げ抜いた試合だ。1942年5月の対名古屋戦で、相手のエースは17番のスター、西沢道夫。4対4の日没引き分けに終わった壮絶な投手戦。しかも、野口は前日にも、先発して被安打1の準完全試合をやっている。恐れ入ります。