53年8月のみ6試合登板、無傷の6勝でアメリカに帰ったレオ・カイリー。
この6連勝は、長らく外国人の連勝記録であった。(2015年ソフトバンク、ハンデンバーグが更新)
レオ・カイリーは前年、レッドソックスで7勝を挙げたばかりの注目株だった。
そこで、徴兵されアメリカ陸軍兵士として朝霞基地、横須賀基地にいた。
当時のファームは二軍独自のリーグ戦は行っておらず、二軍はよくアメリカ軍と試合をしていた。その交流試合で全く歯が立たなかったのがカイリーだった。
そこで、投手不足の毎日オリオンズが交渉し、「軍務の勤務時間以外に球場に行くのならば」という条件で軍務部からカイリーの入団の特別許可を取ったのだ。
左腕からのサイドスローでスクリューボールが武器だったという。
関西へ遠征に来たときは、ヘリコプターに乗ってきて球場に直接降りてきたというからスケールが違う。
6試合で3完投うち1完封。45回を投げて32奪三振、防御率1.80
更にバッティングが19打数10安打、打率.526
当時の主力選手の月給が4万~5万だが、レオ・カイリーは1試合で10万の破格の契約を結んでいた。だがこの年の7月に在日米軍の縮小が決まり、カイリーの除隊が早まったことでさっさと帰国してしまった。
あまりの活躍に「米軍のアルバイトは妥当か?」という議論が巻き起こり54年以降、進駐軍のアルバイト登板禁止、となった。
参考文献 ベースボールマガジン社 トレード史