正岡子規が野球と訳したのは誤解。
松山市出身の俳人。日本に野球を広めた。東京の第一高等中学校で野球の存在を知り、すぐに野球にのめり込んだ。帰郷して、松山中学校の生徒たちに野球という。正岡子規の幼名は「昇、のぼる」だが「野球、のぼーる」というユーモアあふれる雅号も有していた。あくまで雅号を有していただけであって、名付け親ではない。子規自身が「ベースボールは語訳あらず」と明言している。
しかし、バッターを打者、ランナーを走者、フォアボールを四球と訳したのも正岡子規だとされている。
1895年中馬庚が1893年(明治26年)第一高等中学校を卒業する際に出版する「ベースボール部史」の執筆を依頼されたが、その際にベースボールを和訳をするという課題にあたった。
当時は、訳語を使う必要がある場合には「底球」などとしていた。しかし、これではテニスと紛らわしく、新しい訳語を考える必要があった。
執筆も完成に近付いた翌1894年(明治27年)の秋、「Ball in the field」という言葉を元に「野球」と命名し、テニスは庭でするので「庭球」、ベースボールは野原でするので「野球」と説明した。その後、中馬は東京帝国大学(現・東京大学)に進学している。
明治30年(1897年)、中馬は一般向けの野球専門書「野球」を5月に出版し、「ベースボール」の訳語として「野球」が一般に登場したが、雑誌や新聞で「野球」という言葉が使われるようになるなどの、いわゆる一般的な認知を受けるのはそれから5年ほど後のことになった。同年7月に同大学史学科を卒業後、兵役を経て鹿児島に戻り教師となった。
特別表彰という形で野球殿堂入りをしている。
出典Wikipedia