巨人のドラフトを2度蹴った男

山本昌樹

1971年夏の甲子園予選中国大会の準決勝に進む。岡山4強の一角、岡山東商業と当たるが、8回まで2安打と抑え込み2-1と9回二死までリード。しかし、死球から崩れ惜しくも逆転負けを喫した。しかし、惜しくも甲子園出場を逃したが、中国地方屈指の速球が注目されジャイアンツから5位指名。しかし、これを拒否した。

卒業後は松下電器に入社。松下電器のラジオ事業部に配属。

都市対抗野球では、福間納に次ぐ2番手エースとして活躍し、同年のドラフト10位でまたもジャイアンツに指名されたが、またもこれを拒否した。同じ球団に二度も指名され二度とも拒否をした珍しいケースである。しかも、ジャイアンツだけにレアなケースである。

ジャイアンツのドラフト1位を唯一拒否した小林秀一

愛知学院大学リーグで21勝6敗、防御率0.93の成績を残し、また、第二回日米大学野球選手権の代表にも選ばれたアンダースローとして評価されプロのドラフトで注目されていた。

1973年のドラフト1位でジャイアンツから指名された。

当時何度も対戦をした中畑清は懐をえぐる変化球がえげつなかったと言い、当時はジャイアンツが中心で野球界が廻っていた時代に、ドラフト1位を断るなんてあり得ないと答えている。

名古屋のホテルで川上哲治監督と入団交渉したが、「熊谷組は本業の仕事があり次に野球だが、うちは野球で君を必要としている。」と言われたが、仕事として野球を選んだわけではないと思い入団を拒否した。川上哲からかけられた言葉で迷いが消え断る決心がついたという。

もし、入団していたら、背番号は19を用意し、前年まで付けていた湯口敏彦(前年死亡)であり、奇しくも1974年付けたのは、同じ下手投げの小林茂が付けることとなった。

しかし、真相は、当時はプロアマの壁が高く、柳川事件により、プロ経験者がアマの指導が困難な時代であり、アマの指導の興味があった小林は拒否したと思われる。

現に、テレビのインタビューでプロアマ協定が緩和された今の時代だったら、入団したと答えている。

「学生野球の指導者になるのが夢」でジャイアンツドラフト1位の名誉を断ったのだ。

その後、熊谷組に進み、引退後は母校である愛知学院大学の監督に就任。愛知大学野球一部リーグで15年度のうち12度の優勝を誇る。1991年には日本一輝く。

脳梗塞で入院後監督を勇退後は准教授として教壇に立つ。

ピッチャーで最終打席本塁打を放った掘内恒雄

ピッチャーで現役最終打席本塁打を放った。

打撃では1試合3本塁打を1度(ちなみに3打席連続。投手で唯一)、通算21本塁打を記録している。V9時代を含め、12回のリーグ優勝、9度の日本一に貢献した。1980年6月2日の対ヤクルト戦で200勝を達成。 “ピッチャーで最終打席本塁打を放った掘内恒雄” の続きを読む

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