連続奪三振記録江夏豊

■江夏の空前絶後の9連続奪三振

西宮球場で行われたプロ野球のオールスター第一戦で先発した江夏豊。

プロ5年目の若き虎のエースは23歳で円熟期を向かえていた。

初回、先頭打者の有藤道世から9番バッターの加藤英司まで、長池徳二、江藤慎一、土井正博、いうパ・リーグの誇る猛者達、9人すべてを全員三振に斬った。

そして、自分の回ってきた打席で米田投手から3ランホームランを放っている。

さらに、驚くことに、前年のオールスターゲームでも連続5奪三振、ついでにこの次の年にも1つ三振を獲っている。つまり、江夏は3年越しに15連続で奪三振を奪ったことになる。

だだでさえ難しい連続奪三振の記録を、オールスターの最高の舞台で奪うなんて、江夏豊を讃える言葉はそう簡単には見つからない。

日本のオールスターでは3イニングしか投げられない。つまり、江夏は対戦するバッターをすべて三振に獲ったわけでこれ以上のピッチングはお目にかかわれない。江夏のこの記録が不滅の記録と言われる所以である。しかし、江夏の伝説の記録から13年後に普通ではことを考えた男が現れた。

江川卓である。

二リーグ誕生秘話

GHQの総合司令官ダグラス・マッカーサーの部下である、ウイリアム・フレデリック・マッカートが大変野球好きで、今日のアメリカ合衆国は二大政党、二大リーグでバランスの取れた自由競争で繁栄を築いた考えた。

もう一人の部下であるキャッピー原田が、マッカーサーに正力松太郎を紹介し、「日本の野球を、大リーグと互角に戦えるまでレベルを上げたい、是非、貴方の力を貸して欲しい」とのことで二リーグの誕生、サンフランシスコ・シールズの来日となった。

GHQが二リーグの誕生に果たした役割は大きい。

そして、来日したサンフランシスコ・シールズは巨人を中心とする選抜チームを歯牙にもかけなかった。

シールズはパシフィック・コーストリーグに所属する3Aクラスのチーム。そんなチームに一矢も報いることのできなかった無力感は、以下の文面にはっきりと窺える。<川上、別当、大下、藤村、青田、小鶴、西沢などを擁した全日本すら一度も勝てなかった。

アルバイト投手カイリー

53年8月のみ6試合登板、無傷の6勝でアメリカに帰ったレオ・カイリー。

この6連勝は、長らく外国人の連勝記録であった。(2015年ソフトバンク、ハンデンバーグが更新)

レオ・カイリーは前年、レッドソックスで7勝を挙げたばかりの注目株だった。

そこで、徴兵されアメリカ陸軍兵士として朝霞基地、横須賀基地にいた。

当時のファームは二軍独自のリーグ戦は行っておらず、二軍はよくアメリカ軍と試合をしていた。その交流試合で全く歯が立たなかったのがカイリーだった。

そこで、投手不足の毎日オリオンズが交渉し、「軍務の勤務時間以外に球場に行くのならば」という条件で軍務部からカイリーの入団の特別許可を取ったのだ。

左腕からのサイドスローでスクリューボールが武器だったという。

関西へ遠征に来たときは、ヘリコプターに乗ってきて球場に直接降りてきたというからスケールが違う。

6試合で3完投うち1完封。45回を投げて32奪三振、防御率1.80

更にバッティングが19打数10安打、打率.526

当時の主力選手の月給が4万~5万だが、レオ・カイリーは1試合で10万の破格の契約を結んでいた。だがこの年の7月に在日米軍の縮小が決まり、カイリーの除隊が早まったことでさっさと帰国してしまった。

あまりの活躍に「米軍のアルバイトは妥当か?」という議論が巻き起こり54年以降、進駐軍のアルバイト登板禁止、となった。

参考文献 ベースボールマガジン社 トレード史

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