8時半の男誕生秘話

61年のシーズン稲尾和久は78試合に登板し、先発は30試合、48試合はリリーフだった。

42勝というとてつもない記録を打ち立てた。ほかのチームのエースたちも同じで、先発、完投した翌日、勝ちゲームとなれば7回くらいから投げることは珍しくなかった。

エース以外のリリーフは2流選手の仕事だった。

そんな時代に、監督の川上哲治は抑え専門の投手を置くことを思いついた。

もう、メジャーでは抑え専門の投手がおりセーブポイントの制度も出来ていた。

ドジャースに学んだ川上哲治は、当然そのことを知っていたが、もう一つ大事な台所事情があった。当時のジャイアンツには、先発、リリーフをこなす大エースがチームにいなかった。

こうしたなかで、宮田征典に白羽の矢が立った。

心臓に持病をもっていて、先発は出来ないが集中力があり、荒っぽい上州育ちで負けん気も強い。ストレートとカーブだけだが、そのカーブが不規則に変化し三振が獲れる。更に肩の仕上がりも早く、リリーバーにはもってこいの選手だった。

宮田もまだ誰もやったことのない仕事に意欲満々だった。

そして宮田の抑え役は成功した。

この年のジャイアンツは先発陣が後半に崩れるケースが多く、それを宮田が一人で支えた。69試合に登板し、20勝5敗、抑え専門の投手としては空前絶後の記録である。宮田の平均イニング数は2.8イニング。時には4回、5回を投げたこともある。いつしか「8時半の男」というニックネームがついた。

時計が8時半を指すと、決まってマウンドに上がり快刀乱麻のピッチングをする。

「もつれた試合の緊迫感、それを見事に解決する宮田征典」。

「時計が8時半の男」

サスペンスなムードが漂う出色の「ニックネーム」ではなかっただろうか。

連続三振記録

横浜、中日、楽天でプレーしたピッチャー、ドミンゴ・グズマンが最多。        2003年の横浜時代に18打席連続で達成。投手は打席に立っても積極的に打つことはありませんが、ずっと三振というにはなかなかいません。ちなみにこれは、世界記録。       そして、このドミンゴは1イニング3ボークというとんでもない日本記録も持っている。

ドミンゴは投手としては、先発ローテーションに入ってゲームを作れる投手でした。ストレートがシュート気味に動いて、右バッターは打ちにくそうでした。             当時のドラゴンズ 落合監督はドミンゴが横浜をリリースされると、すぐに獲得に踏み切りました。落合自身が打ちにくそうな投手だったのです。日本シリーズの最終戦、第7戦にも登板した実績の持ち主でした。

野手の三振記録は、楽天の鉄平が2006年に9連続三振が最多です。しかし、鉄平が凄いのは、この年はチーム2位の打率.303を記録。2009年には首位打者を獲得しています。                   鉄平は、登録名で、本名は土谷鉄平。高校時代は九州のイチローと呼ばれ、元々、ドラゴンズが獲得した選手です。彼もまた、落合監督が絡んでいます。              「他で活躍できると思ったから出したんだからな」と。

出典 Wikipedia Public domain

ドミンゴ、鉄平といずれも、ドラゴンズにがらみと言うのは面白いですね。

連続試合安打の日本記録

練習の虫 高橋慶彦

1979年、広島市民球場での巨人戦。1回の裏、最初の打席、右打席に立つ高橋に球場、テレビのすべての視線が集まった。新浦の2球目をレフト前に運びあっさり達成した。

新記録が懸かった試合は7月31日、広島市民球場での巨人戦。1回裏、1番打者として右打席に立つ高橋に球場のすべての視線が集まった。巨人の先発・新浦寿夫が投じた2球目をレフト前に運び、ついに日本記録を更新。球場中が歓喜に包まれた。

入団後、スイッチヒッター習得のため、古葉監督指示のもとコーチの山本一義コーチの候特訓を受け、朝から晩までバットを振り続け、食事時も寝る時もバット放さなかったという。この高橋の成功が後の数々のスイッチヒッター誕生のきっかけとなった。

しかし、大記録を打ち立てた高橋だったが直後の2回、守備中に負傷し途中退場してしまった。8月8日の阪神戦で復帰したものの、ノーヒットに終わり、連続安打記録は33でストップした。

野球の名付け親

正岡子規が野球と訳したのは誤解。

松山市出身の俳人。日本に野球を広めた。東京の第一高等中学校で野球の存在を知り、すぐに野球にのめり込んだ。帰郷して、松山中学校の生徒たちに野球という。正岡子規の幼名は「昇、のぼる」だが「野球、のぼーる」というユーモアあふれる雅号も有していた。あくまで雅号を有していただけであって、名付け親ではない。子規自身が「ベースボールは語訳あらず」と明言している。

しかし、バッターを打者、ランナーを走者、フォアボールを四球と訳したのも正岡子規だとされている。

1895年中馬庚が1893年(明治26年)第一高等中学校を卒業する際に出版する「ベースボール部史」の執筆を依頼されたが、その際にベースボールを和訳をするという課題にあたった。

当時は、訳語を使う必要がある場合には「底球」などとしていた。しかし、これではテニスと紛らわしく、新しい訳語を考える必要があった。

執筆も完成に近付いた翌1894年(明治27年)の秋、「Ball in the field」という言葉を元に「野球」と命名し、テニスは庭でするので「庭球」、ベースボールは野原でするので「野球」と説明した。その後、中馬は東京帝国大学(現・東京大学)に進学している。

明治30年(1897年)、中馬は一般向けの野球専門書「野球」を5月に出版し、「ベースボール」の訳語として「野球」が一般に登場したが、雑誌や新聞で「野球」という言葉が使われるようになるなどの、いわゆる一般的な認知を受けるのはそれから5年ほど後のことになった。同年7月に同大学史学科を卒業後、兵役を経て鹿児島に戻り教師となった。

特別表彰という形で野球殿堂入りをしている。

出典Wikipedia

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