槙原寛己夜の完全試合

福岡での試合登板前日、槙原寛己は、門限を破って外出をしました。

眼鏡、帽子をかぶって変装していましたが橋の上で堀内ピッチングコーチに見つかってしまい、宿舎に帰ると案の定、1か月の外出禁止を言い渡されました。

唯一の楽しみを奪われた槇原は、逆に。見返してやろうと次回の登板にかけていました。

この試合、槇原は絶好調でした。いわゆるゾーンに入っていました。

打者の心理がことごとく当たり、打者の打ち気の無いときは簡単にストライクを取り、打ってくると感じたときはストライクからボールになる球で打たせて次々、アウトを重ねました。

槙原本人は5回から意識していました。過去にも、何度か5回までノーヒットというのは経験していましたが、四球が無いのは初めてでした。ベンチもなんとなくそんな、雰囲気になっていました。ただ一人の人間を除いて…….

そう、サードを守る一茂は6回まで気付いていなかった。

チームの皆が、エラーをやるなら一茂(長嶋一茂)だと。

しかし、本人は「俺のところへ飛んで来い」と思っていたそうです。

終盤になると三塁手、一塁手はライン際を詰めて守るのがセオリーだが、一茂は三遊間を詰めていた、理由は定かではありません。長嶋家特有の「感ピューターでしょう」。

しかし、最後から2人目の西山選手の打球はその三遊間に飛んでくるから驚きです。真正面のゴロを横でグラブに収めて一塁へ送球してアウト。このプレーにジャイアンツナインは内心びくびくしていたそうです。

筆者もこの試合はテレビで見ていましたが、普通の監督だったら、一茂は使わないだろうと思いました。しかし、この時の監督は長嶋茂雄でした。

あの試合の9回の臨場感はすごかった記憶があります。アナウンサーも興奮していました。

そして、最後のバッター御船選手の打球は、力なくファーストを守る落合の所へ上がりました。難なくグラブに抑えて試合終了。

最初に槇原に抱き着いたのは、キャッチャーの村田真一ではなくサード、一茂でした。

その後、落合は塁審に聞いたそうです。「もし、あのファウルフライを落として次のバッターがアウトになっても完全試合になるのか?」と。答えはエラーが付き完全試合にならないそうです。

余談ですが、門限破り外出禁止と言われていた槇原でしたが、球団から好きなだけ飲んで来いと言われ、しかも支払いは球団持ち、と言われましたが、いくら飲んでも興奮の為か酔わない、とのことで1時間ほど飲んで宿舎に帰ったそうです。

前田、江藤、金本が故障のためベンチにいなかったのも槙原にとって幸運でした。

補殺0で完封勝利の珍記録

それは、昭和58年5月25日の甲子園でのタイガース戦での出来事。

この日まで3連敗の中日の近藤監督は先発のマウンドに高橋三千丈を送りました。

この後、この試合がプロ野球唯一の珍しい記録になるとは誰も思ってなかったでしょう。

高橋はルーキーイヤーに5勝を挙げましたが、2年後に右わき下血行障害を患い、右の太もものえ静脈を15センチ切って幹部に移植する大手術をしました。この日高橋は実に3年ぶりの登板だったのです。

久しぶりの登板でやや緊張の面持ちでしたが、初回はセンターフライが2つ、外国人のストローターにセンター前にヒットを打たれました4番の掛布をキャッチャーフライに打ち取りました。

2回も内野フライ2つとレフトフライ。

4回は四球を与えましたが、内野フライ、外野フライ2つ。

代打バース登場

5回、センターフライ、笠間にレフト前にヒットを打たれましたが、代打バースを三塁フライ。

平田をショートフライ。

ゴロがないことに気づく

このあたりから、阪神ベンチも「ゴロがないことに気づいた」溝脇コーチも上から叩けと支持を出しました。

ところが、6回も2者連続三振。掛布はセカンドフライ。

7回も3人が内野フライに倒れ、依然補殺は0のまま回は進む。

高橋も回が進むごとに調子を上げ、球威も増して、阪神打線もボールの下を叩き凡フライを打ち上げる。

8回、投手前の内野安打で出塁したが、バース三振、平田がライトフライ、代打川藤がライトフライで倒れ、3塁さえも踏ませない見事なピッチング。

そして9回、簡単に2者を外野フライに打ち取り、最後のバッターをライトフライに打ち取りました。

3つのゴロはいずれもヒットとなった。

ここに、史上初の補殺0の完封勝利という快挙を達成しました。

しかも、打たれた三本のヒットは、いずれも内野の間を抜きゴロのヒットになったのは皮肉です。

試合後、高橋は「本当に嬉しい、これでやっと一区切りつきました、とにかく一つでもいいから勝ちたかった」と語っています。

そして、血行障害の影響で、結局この試合が現役最後の勝利となってしまいました。

病魔により、不運にも選手生命を絶たれてしまった、高橋選手に神様が授けてくれた大記録だと思います。

王貞治のバント2塁打

昭和39年5月5日、巨人広島戦のダブルヘッダーの第一試合。

広島の監督白石勝巳は、王貞治が打席に入ると、野手を右半分に野手6人を集める、いわゆる王シフトを敷いた。

三塁手はショートのすぐ左、ショートは2塁ベースの右側、2塁手は1塁ベースより、一塁手はベースの一塁線ギリギリに守った。

王の打球がライト方向に偏ることから編み出した戦術。レフト方向をがら空きにする極端なシフトを敷いた。

王は2日前の阪神戦で4打席連続ホームランを放っており、この試合の1打席目に5打席連続ホームランの記録がかかっていた。この戦法はものの見事に当たり、4打席無安打に抑えた。しかし、第2試合目の7回にバックスクリーンの右側に同点打を放った。

白石監督は王ほどのバッターはシフトを敷いたって役に立たないと思っていたが、流し打ちをさせることによってフォームを乱し、元に戻るのに時間がかかると思い作戦を実施した。

その後も王シフトは続いた、本来なら1、2塁間を抜けるあたりがセカンドゴロになったり、センター前に抜けるあたりがショートゴロになったりしたが、王は流し打ちの誘惑に負けることなく自分の打撃を貫いた。

しかし、同年の7月15日の広島戦で王は、珍しく3塁戦にセーフティバントを試みた。

打球は、三塁線を転がり、ベースの内側を通過して無人のファウルグランドに転がった。王シフトをしていた内野手は誰も追いつかず、ボールが転々としている間に王は悠々と2塁に到達した。

しかし、バントを試みた王は「相手がいないところを狙うのは、気持ちのいいものではない」とコメントしている。

出典 Wikipedia Public domain

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スタンドからウイスキーの空き瓶を投げられ退場

1964年7月12日川崎球場での出来事

9回の表の巨人の攻撃が始まる直前。レフトの守備に就いていた長田幸男左翼手、目がけてウイスキーの空き瓶が飛んできた。幸い当たる事がなかったが、マナーの悪い観客に激怒した長田は観客に向って「その男を捕まえてくれ」と言ったが、その男は慌てて逃げ出した為、フェンスをのぼって観客席の中へ。

まもなくその男は警備に当たっていた川崎職員に取り押さえられ、長田も現場付近でファンとしばらく話した後、グランドに戻った。

ところが線審の松橋慶季は長田選手に退場を命じた。これは、試合中に観衆に話しかけたり、席を同じくしたり、スタンドに座る事を禁止したりする事は野球規則に反するとした。

再びスタンドは騒然とした。

大洋の三原監督は10分間の抗議をしたが受け入れられず、長田も「守っている時に、紙コップ、そのあとにいきなりウイスキーの空き瓶が飛んできた、もし当たったら怪我をしてしまう、観客に対して、誰かそいつを捕まえてくれと頼んだが無視されたので自分が捕まえてスタンドに飛び込んだ」と訴えたが聞き入れてもらえず、結局退場。

男は、自分の名前を言えないほど酔っていたと言い、

ウイスキーだけに水を差された格好となった。

しかし、9回の裏、2点負けていた大洋は、金光秀憲の左中間への2塁打とクレスの犠牲フライで同点に追いつき、4番桑田武がセンター前ヒットを放ち見事サヨナラ勝ち。

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