燃えよドラゴンズの歌詞を検証する

今回は、「燃えよドラゴンズ」に出てくる有名なフレーズ、2番の歌詞を検証しようと思います。

1番高木が塁に出て   仮に四球で出塁したとする、ランナー1塁

2番谷木が送りバント  自分はアウトになるが、1塁走者が2塁に進む

3番井上タイムリー   ヒットを打って2塁ランナー高木がホームに帰り1得点。

打者ランナーが1塁に残る。

4番マーチンホームラン 井上が1塁にいるので、ツーランホームランで2点追加。

つまりこの攻撃で3点入ることになります。ヒット2本(ホームランを含む)で3点とは、何と効率の良い点の取り方でしょう。

ちなみに、この1974年のシーズン、2番の谷木恭平選手は送りバントの企画数は、わずか7個で、成功は6個しかありません。意外な数字でビックリしました。

そして、高木選手をバントで送ったケースは、これもまた、1シーズンでわずか3個。

谷木=バントという、イメージがこの歌からついてしまったのでしょうか?何しろ、古くからのドラゴンズファンであった僕でさえ、「2番谷木が送りバント」というフレーズは全く違和感がありませんから。

谷木はこの1974年のシーズン、86試合に出場。打率.274 本塁打2本 打点14の成績で準レギュラーという位置づけです。このシーズンの開幕の2番センターはジミー・ウイリアムスでしたが、不振で谷木選手に交代しました。

3番打者の井上弘明は73年に広島カープから、トレードで入団しました。持ち前の勝負強い打撃でレフトのポジションを獲得。1974年の成績は

打率.290 本塁打18 打点58。一見平凡な数字に見えますが、OPSが.835もあり、(.800あれば優良)全試合出場、3番打者でありながら盗塁も15個あり、チームの勝利に貢献していると思われます。

マーチンは与那嶺監督が直々に入団交渉を行い獲得した選手。この年にドラゴンズに入団し、打率.269 本塁打35本 打点87 OPS .867

優勝に大きく貢献しました。

    燃えよドラゴンズの誕生秘話

    以前から探していた、燃えよドラゴンズ(1974年盤)のレコードをやっと探し出し購入しました。野球ファンなら、一度は聞いたことがあるでしょう。

    1番高木が塁に出て、2番谷木が送りバント・・・。

    しかも、今では入手困難な板東英二の歌った正真正銘の最初のバージョンです。

    当時、大学生だった山本正之が音楽業界を目指していたが挫折し、この当時、20年ぶりの優勝に向って優勝争いをしていた、ドラゴンズの試合中継をラジオで、聞いていたところ「藤波行雄がタイムリーヒットを打った時」に奮起したという。

    藤波は山本と同じ年で、ルーキで活躍中だった。「彼は活躍しているのに自分は何をやっているんだ」と少々嫉妬していた。「よし、俺もやろう」と思い立ち貯金箱を壊したら、小銭が出てきて、それで、とりあえず銭湯に出かけようと思った。

    その後、銭湯の入浴中に「一番高木が塁に出て~」というフレーズが出てきた。そして打者部分、下宿にて全体を2時間ほどで完成させ、曲名はブルースリーの映画「燃えよドラゴン」から付けられ、早速、CBCラジオにデモテープを送りました。

    当時、CBCラジオでの「ばつぐんジョッキー」の月曜のパーソナリティは元、中日ドラゴンズOBの板東英二が担当。板東英二は引退後、ドラゴンズの解説を担当していましたが、そのトークが面白いと評判で、当時としては異例の解説者から、ラジオのディスクジョッキーへ転身しました。

    このデモテープを番組内で放送したところ、問い合わせが殺到し、生放送で同じ曲を2度流すのも異例だが、3時間の放送中に5回もかけたという。

    板東英二が、仕事で海外から船で横浜港に降り立った時に、レコード会社の人が待っており、その足でレコーディングしたという。当時、レコードにするのに2か月かかったが、急遽2週間で制作され、シーズン終盤の1974年10月10日にリリースされました。

    このレコードは40万枚を超えるヒットとなりましたが、この1974年(昭和49年)はオイルショックで材質のポリ塩化ビニールが不足していたこともあり、生産が追い付かなかったそうです。

    この歌の応援もあってか、この年、ドラゴンズは20年ぶりの優勝を成し遂げました。

      キューバと日本の野球事情

      先日、ソフトバンクのモイネロがオリンピックアメリカ大陸予選出場の為に日本を離れました。

      「リリーフ陣が大変な時に離れるのが申し訳ない」「早く帰って来た時にはもっといいパフォーマンスが出せるようにしたい」とファンにコメントを寄せ、ネットから賞讃されている。ファンからも、西武ファン、中日ファンを名乗り、「コロナ感染に気をつけて、やりくりが大変ですが残ったメンバーで頑張ろう」などと、ひいきチームの垣根を越えたエールを交換があり、心温まる一幕となった。

      キューバの野球事情は複雑で、国内のキューバリーグを行っているが、社会主義国家で全員公務員の為、わずかな稼ぎにしかならない。その為、国外で野球をして稼ぐ選手は多いのだが、今、現在もアメリカと国交断絶をしているので、MBLでプレーをするには亡命をするしかない。

      昨年末、ソフトバンクのオスカーコラス選手が、日本を離れキューバへ帰国するはずが、ドミニカへ入国して、その後、アメリカへ亡命したことが分かりました。

      DeNAのグリエル選手も、日本で活躍後したその年の暮れにアメリカへ亡命をしました。

      早くから、キューバ選手の獲得へのルートを作ったのは中日ドラゴンズです。キューバの至宝、オマール・リナレスを獲得し、話題となりました。キューバ政府と交渉をして独自のルートで現在も、絶対的守護神、ライデル・マルチネス、アリエル・マルチネス、ロドリゲスと若い選手を獲得し育成をしてきました。しかし、ダヤン・ビシエドはアメリカに亡命をしたキューバ人です。

      ソフトバンクも地道に獲得ルートを築いてきました。しかし、亡命するリスク、キューバ政府との交渉が必要で、この先の契約の事はスムーズにいくとは限りません。

      キューバ政府も外貨を獲得する為に、日本に派遣しているのですが・・・。

      このように、亡命、選手派遣でキューバ選手が海外へ出てプレーする機会が増えると、キューバ構内の野球レベルが低下してきます。ひと昔前は、キューバ野球は無敵でした。

      特に90年代は、タレントが揃い、リナレス、キンデラン、パチェコ、のクリーンアップは破壊力抜群でした。国際大会151連勝というとてつもない記録を打ち立てました。

      (ちなみに連勝記録を止めたのは上原浩治)

      中日ドラゴンズ、ソフトバンクホォークスには、このキューバ人離脱の間、戦力ダウンに負けずに、是非、乗り切って欲しい。

      そして将来、日本で育ったキューバ選手と侍ジャパンが国際大会での戦う姿を見てみたい。

        三振しない首位打者吉田正尚

        現在、2021年5月の時点で首位打者は、オリックス・バッファローズの吉田正尚。 “三振しない首位打者吉田正尚” の続きを読む

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