長嶋茂雄の三角ベース事件

広島対巨人戦での出来事。

4回の表、レフト前ヒットで出塁した長嶋は、次打者国松彰の時にヒットエンドランがかかり、スタートを切っていました。

しかし、打球は平凡なレフトフライとなりましたが…。

足に自信のある長嶋はこの時2塁を廻って三塁の手前まで来ていたのです。左翼手の大和田が捕球したのを見届けてからあわてて、脱兎のごとく一塁に帰塁しました。

しかし、この時、1塁に戻るには2塁ベースを踏まなければならないのです。長嶋はうっかり二塁ベースを踏まずに一塁に戻ってしまったのです。

捕手の田中尊捕手はマウンドの大石清投手に走り寄りセカンドに送球するように指示をしまいた。2塁ベースに入っていた古葉竹識にボールが渡り、走者の長嶋がアウトとなりました。

生涯3度のミスター

「慌てちゃってね」と反省する長嶋でしたが、39年5月21日の中日戦での、王貞治のレフトフライ、43年の5月16日の大洋戦での森昌彦のセンターフライ、と懲りることなく、3度も同じミスをおかしているのです。

さすがはミスタープロ野球。長嶋伝説は永遠に語り継がれる事でしょう。

参考文献 日刊スポーツ B級ニュース

    5連続安打を放ち無得点の珍記録

    昭和38年8月14日、阪急対近鉄戦での出来事。

    1回の表、先頭のバルボンがライト前ヒットで出塁。次打者岡島の時に2塁へ盗塁を仕掛けて失敗。打者の岡島はセンター前ヒットを放ち、続く戸口天従もレフト前ヒットを放った。ところが、3塁を欲張った岡島が左翼手土井正博の好返球。3塁で刺され二死となった。

    ここで、4番中田昌宏がセンター前ヒットを放ち、二死1,2塁。

    続く5番早瀬万禧もセンター前ヒットで続いたが、2塁走者戸口がセンター山本八郎の好返球で本塁憤死。スリーアウトチェンジとなった。

    先頭打者から5連続ヒットを放ちながら無得点に終わる珍事となり、スタンドからも爆笑が沸き起こった。

    阪急監督の西本幸雄は自ら3塁コーチボックスで、走者がタッチアウトになるのを見届け、点を仰ぎ、「初回、走者とエンドランの失敗であんなことになった。新記録だろ?2度目だって?恥ずかしい事だが安心したよ」との味のあるコメントを残した。

    戦前の記録では昭和12年10月27日、金鯱対イーグルス戦でイーグルスが同じ5連続安打を放ち無得点に終わっている。

    参考文献 日刊スポーツ B級ニュース

      江川と西本のライバル魂

      2人の関係を象徴するシーンがある。

      1979年、「地獄の伊東キャンプ」と呼ばれる秋季特別練習を行なったブルペンで、江川と西本が並んで投げることになった。

      西本が述懐する。 “江川と西本のライバル魂” の続きを読む

        背番号18の譜系

        背番号の歴史は1929年4月18日。

        ヤンキースはヤンキースタジアムの開幕戦に背中に番号の入ったユニフォームで登場。それまで袖に番号を付けた球団はあったが、背中は初めてだった。番号はベストメンバーの打順を元に作成されており、3番はベーブ・ルース、4番はルー・ゲーリックであった。8番を打つキャッチャーは3人起用するので、投手は11番以降である。日本で言う、エース18番はムーアというリリーフ投手がつけていた。


        日本チームが初めての第一回アメリア遠征を行った時の背番号もアメリカ方式で、沢村栄治が17、スタルヒンが18。帰国後に完全にアメリカ方式になり、投手が10番台で沢村が14番で(後に永久欠番)でスタルヒンが18番を背負い看板ナンバーとなる。


        巨人軍は、36年に2度目のアメリカ遠征を行い、帰国後に藤本定義が監督に就任。社会人きってのエース前川八郎を入団させ背番号18を与えた。その頃の大リーグには18番の好選手は全くいなかったのでアメリカからの影響は全くないと言える。


        タイガースには、七色の変化球を駆使し、エースとなった若林忠志が18番を背負っていた。

        当時のタイガースは、背番号をイロハの順につけていた。1番、伊賀上良平 2番、小川年安、3番、岡田宗芳。もし全員この方式なら、若林は5,6でないといけない。よって、理由は不明である。但し、若林は当時、社会人野球のスターで、もしかしたら本人の希望かもしれない。


        36年セネタースの18番は野口明。当時の球界で沢村と並ぶ好投手。兵役に入ると、弟の二郎が入団。こちらも甲子園優勝投手でエリートで、兄の18番を引き継いだ。1年目からいきなり33勝。兄が復員してからも18番をつけて、通算237勝を挙げている。

        巨人は前川が退団すると、39年中尾輝三が継いだ。

        野口二朗の18番が一番輝いた試合は、語り継がれる延長28回を投げ抜いた試合だ。1942年5月の対名古屋戦で、相手のエースは17番のスター、西沢道夫。4対4の日没引き分けに終わった壮絶な投手戦。しかも、野口は前日にも、先発して被安打1の準完全試合をやっている。恐れ入ります。

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