物干竿の藤村富美男

藤村冨美男は1935年11月11日大阪タイガースと月給100円で契約をした。

翌年の4月29日に甲子園球場で行われた日本職業野球の開幕戦に先発し、名古屋金鯱軍を相手に9回1安打11奪三振の快投で初勝利を飾ってい “物干竿の藤村富美男” の続きを読む

    沢村栄治と景浦将のライバル対決

    景浦将の豪打伝説

    広い甲子園、当時は今よりも両翼が18.28mも深く、昭和9年にベーブルースを中心とした全米オールスターチームが来た時もホームランが一本も出なかったが、景浦将は楽々とスタンドに打球を放り込んだ。重戦車のような体でスイングすると10本のうち4本は甲子園のスタンドに届いた。

    坪内道則は、ホームランを狙った打球は、タバコが一服できるくらい高く上がり加速度がついて落ちてくる。弾丸ライナーになった時は怖くて手が出ない。

    昭和11年12月。洲崎球場で巨人―阪神の優勝決定戦が行われた。

    第三戦、景浦は沢村から東京湾に入るとまでいわれた大ホームランを見舞う。

    この試合、他にもセンターオーバーの2塁打、レフト前ヒットと沢村を滅多打ちにした。

    景浦は最初の記念すべき巨人―阪神でもホームランを放っている。6月27日甲子園球場の4回、沢村からレフトスタンドに叩き込んだ。

    この年(昭和11年)景浦は、投手としても活躍。9試合に登板し6勝0敗、防御率1.05の成績を残し、最優秀防御率、最高勝率を残している。

    東の沢村、西の景浦。職業野球は沢村が投げ、景浦が打ち始まった。

    12年は 沢村が24勝4敗 防御率0.81 最高殊勲選手、最高防御率、最優秀勝率の三冠。

    そして、5月1日のタイガース戦で2度目のノーヒットノーラン。

    この後、3度目のノーヒットノーラン。

    景浦は 打点王。そして投手で 11勝5敗 防御率0.93でローテーションの一角を守った。

    最後の試合はタイガース戦で代打

    昭和18年10月24日、洲崎球場でのタイガース戦。2-2で迎えた11回表、1死1,2塁。

    6番青田昇に代わって沢村が打席に入った。

    「じゃじゃ馬」とよばれた鼻柱の高い青田が素直に従ったのは、沢村の打者としての資質がしのばれる。結果は三塁ファールフライだった。

    結果的にこの試合が沢村栄治の最後の出場となった。

    ライバル、運命の出会い

    秋のリーグ戦後、阪神軍、阪急軍、南海軍、朝日軍の選手達は兵庫県にある川西航空機の工場で働くことになった。昭和19年、景浦は沢村栄治と出会った。

    ほんの数年前に、大観衆の前でライバルとして戦ってきた2人が航空機の脚や、燃料タンクの骨組みを作る作業に追われていた。

    作業の合間の休憩中に防空壕の中で、煙草を吸いながら話し込んでいたという。

    しかし、昭和19年10月2日、沢村に三度目の赤紙が届いた。

    11月13日、京都伏見連隊に入営。12月2日、門司港からフィリピンに向かう途中、東シナ海で敵の魚雷攻撃を受け戦死した。享年27歳。

    景浦将は、昭和20年5月20日 2度目の応召

    比島において胸部貫通統創により戦死。

    もちろん遺骨は無い。死亡通知書と白木の箱に入っていたのは、遺骨の代わりの小さな石コロだった。

      ノーヒットツーラン

      この試合、ルーキー村山実は絶好調で、初回、3回と三者三振。4回まで無走者。

      味方が2点を獲った次の5回、先頭の長嶋が初出塁、1死2塁で広岡達朗のサードゴロを三宅秀史が1塁へ高投。ボールが転々としている間に長嶋がホームイン。

      続く宮本敏男の投手ゴロを村山が一塁へ悪送球。広岡が同点のホームを踏んだ。

      しかし、6回裏にエラーをした三宅がミスを挽回するホームランを放ち3-2とリード。

      その後、わずか1四球で無安打を継続。

      最後の打者、長嶋茂雄に対し、ツースリーから外角いっぱいに決めて三振。

      見事、ノーヒットツーランを達成した。

      セリーグ初の毎回奪三振14個のおまけ付きだった。

               

      参考文献 プロ野球B級ニュース 日刊スポーツ出版社

        連続無三振記録

        イチローの連続無三振記録

        優勝決定の瞬間でもないのに、1人の左打者が空振り三振をしただけで3万7000人の観衆がこんなに盛り上がことは、かつてなかった。

         日本ハム-オリックス14回戦(東京ドーム)の4回、2死二塁で三振をしたのはオリックス・イチロー。阪神・藤田平内野手が持っていた208打席連続無三振の記録を前日の24日に更新したものの、216打席でストップ。

         「おーっ、(三振は)こんな感じだったな、っていう感覚ですかね。今の気持ち?悲しみにうちひしがれているとでも言えばいいんでしょうかね。(94年のシーズン)200安打の時より、盛り上がりましたよね。ホント、三振してこんなに喜んでもらえて僕は幸せ者かと…」。記録が途切れて悔しいというよりは、これでいちいち番記者に記録のことを毎回聞かれなくて済む、という煩わしさから解放されることの方が嬉しくて、ジョークを交えた“イチロー節”がポンポン飛び出した。

         4月16日のロッテ2回戦(ナゴヤドーム)の2打席目、竹清剛治投手との対戦で三振を喫してから、だれも奪えなかったイチローからの三振。
        記録を216打席で止めたのは下柳剛投手。これまで対イチローは31打数10安打で3割2分3厘、三振はわずかに2個。天才打者に左対左のハンデはほとんど関係なく、下柳も三振よりも打ち取ることだけを考えて投げた結果だった。
         初球のスライダー以外、イチローはすべてバットを振った。下柳が決めにいったのはカウント2-0からの4球目。ストライクからボールからなる129キロのスライダーだった。これをイチローはカットしてファウルにした。

        空振りしたのはわずか8回
         

        「普通なら空振りや。さすがイチローやね」と下柳。
        無三振の間、イチローがツーストライクに追い込まれたのは66打席あったが、結果は58打数29安打7四死球1犠飛、打率5割。簡単に打ち取れないどころか、ヒットを打たれる確率がかなり高かった。
         変化球では仕留められそうもない。5球目、下柳と山下和彦捕手はインコース低めのストレートを選択した。
        「内野ゴロになってくれれば」との思いでより低くという気持ちが強かった下柳は「投げる瞬間指が引っ掛かって、変な球になった」。

        真ん中からやや沈んだのが幸いした。142キロのボールにイチローのバットが音を立てず、クルリと回った。過去216打席中で空振りしたのはわずか8回しかなかったが、217打席目の9度目の空振りで記録は止まった。

         大きなため息と大きな歓声。それでも下柳はニコリともしない。「オレが盛り上げたわけじゃないし、三振もたまたまッスよ」。
        イチローと同じく、あれやこれや聞かれるのは嫌い。記録より、2回途中からリリーフ登板し、6回3分の2を投げ、ハーラーダービートップの7勝目を挙げたことの方が嬉しかった。

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