敬遠のボールをランニングホームラン

敬遠のボールをランニングホームランにした長嶋茂雄

苦手の球種、コースのない長嶋茂雄は、敬遠を受ける事が多かった。初年度の1958年には6試合連続敬遠を記録。

1960年の国鉄との開幕戦では、5回二死1塁の場面で、カウント1ストライク2ボールとなったところで捕手が立ちあがり、長嶋を敬遠しようとした。投手の村田 “敬遠のボールをランニングホームラン” の続きを読む

沢村栄治

■沢村栄治が伝説になった快投

1934年11月30日の草薙球場での全日本チーム対大リーグ選抜チームとの試合で快投。

9奪三振を奪ったが、7回にルー・ゲーリックにホームランを打たれて、1―0で敗れた。

この頃、日本では、ピッチャーは投込めば投げるほど球威が上がるとされ、この日も、沢村は、多くの球数を投げた上に登板したうえでの快投でした。この頃の、野球は大リーグと日本には、相当のレベルの差があり、実際にこの年の成績も0勝16敗。

わずか17歳の少年は、この投球により伝説の投手となった。

プロ野球が始まった1936年に、プロ初のノーヒットノーランを達成し、巨人を初優勝させた。さらに翌年、2度目のノーヒットノーラン、24勝をあげプロ野球初のMVPを受賞した。

■タイガースとの決戦は3連投

11年12月9日から州崎で行われるタイガースとの三連戦は3連投。

第3戦の前日沢村は日本橋の旅館布袋屋で宿泊。何も飾り付けも、床の間もない部屋に泊まり、肩が痛く眠れない為、女将と女中に馬肉で冷やしてもらって、試合に臨んだ。

ちなみに、この時、第一戦でこの沢村から4回裏にカウント1-3から豪快なスリーランを放った景浦の打球は、左翼スタンドでワンバウンドして海に消えた。(後に太平洋ホームランと形容される)

そして、沢村は決戦の日も5回から登板し勝利投手になった。


沢村の野球人生は順風満帆のはずだった、戦争さえなければ・・・。

■3度の応召

1938年から1940年まで沢村は徴兵され、2年間を棒にふっただけでなく、手榴弾の投げ過ぎで肩を壊した。

復帰後は、マラリアに感染した影響で、球場内で倒れたり、肩を壊した為に、サイドスローに投げ方を変えた。

球速が上がらなかったが、制球力と変化球主体のピッピングに成功し、見事3度目のノーヒットノーランを達成した。

しかし、2度目の徴兵により、復帰後は肩が完全に上がらず、今度はアンダースローで投手を務めた。しかし、幾度となく戦地へ出かけた影響により、身体はボロボロで投手としては成績が上がらなかった。

■最後の試合出場は何と

最後の試合出場は、何と、青田昇の代打としての打席だった。若林の投げた初球を打ち上げ三塁へのファウルフライとなった。これが沢村の最後の試合出場であった。

復員後は巨人を解雇され、飛行機工場で失意のまま働いた。
昭和19年、沢村は驚くべき出会いがあった。景浦との出会いである。ほんの数年前に、ライバルとして戦って大観衆から声援を受けてきた2人が、航空機の脚や燃料タンクの骨組みを作る作業に追われていた。作業の合間の休憩時間に2人は防空壕の中で煙草を吸いながら話し込んだという。

そして、沢村は3度目の応召。フィリピンへ向かう輸送船に乗り込んだ。

10月2日アメリカの潜水艦から魚雷攻撃により帰らぬ人となった。

■かつて沢村栄治の球を受けた故・山口千万石(せんまんごく)捕手の指は、その剛速球で曲がったという

千葉茂によると、スピン効いた快速球、スタルヒンの場合は、ズドンと来る重い球と表現している。

内保氏「沢村のカーブは三段階に曲がり、ドスンと落ちる。しかも三段階目の時は、球が一瞬止まったものだ。」

三校文献 週間ベースボール2009年5月11日号

PAGE TOP