景浦将の豪打伝説
広い甲子園、当時は今よりも両翼が18.28mも深く、昭和9年にベーブルースを中心とした全米オールスターチームが来た時もホームランが一本も出なかったが、景浦将は楽々とスタンドに打球を放り込んだ。重戦車のような体でスイングすると10本のうち4本は甲子園のスタンドに届いた。
坪内道則は、ホームランを狙った打球は、タバコが一服できるくらい高く上がり加速度がついて落ちてくる。弾丸ライナーになった時は怖くて手が出ない。
昭和11年12月。洲崎球場で巨人―阪神の優勝決定戦が行われた。
第三戦、景浦は沢村から東京湾に入るとまでいわれた大ホームランを見舞う。
この試合、他にもセンターオーバーの2塁打、レフト前ヒットと沢村を滅多打ちにした。
景浦は最初の記念すべき巨人―阪神でもホームランを放っている。6月27日甲子園球場の4回、沢村からレフトスタンドに叩き込んだ。
この年(昭和11年)景浦は、投手としても活躍。9試合に登板し6勝0敗、防御率1.05の成績を残し、最優秀防御率、最高勝率を残している。
東の沢村、西の景浦。職業野球は沢村が投げ、景浦が打ち始まった。
12年は 沢村が24勝4敗 防御率0.81 最高殊勲選手、最高防御率、最優秀勝率の三冠。
そして、5月1日のタイガース戦で2度目のノーヒットノーラン。
この後、3度目のノーヒットノーラン。
景浦は 打点王。そして投手で 11勝5敗 防御率0.93でローテーションの一角を守った。
最後の試合はタイガース戦で代打
昭和18年10月24日、洲崎球場でのタイガース戦。2-2で迎えた11回表、1死1,2塁。
6番青田昇に代わって沢村が打席に入った。
「じゃじゃ馬」とよばれた鼻柱の高い青田が素直に従ったのは、沢村の打者としての資質がしのばれる。結果は三塁ファールフライだった。
結果的にこの試合が沢村栄治の最後の出場となった。
ライバル、運命の出会い
秋のリーグ戦後、阪神軍、阪急軍、南海軍、朝日軍の選手達は兵庫県にある川西航空機の工場で働くことになった。昭和19年、景浦は沢村栄治と出会った。
ほんの数年前に、大観衆の前でライバルとして戦ってきた2人が航空機の脚や、燃料タンクの骨組みを作る作業に追われていた。
作業の合間の休憩中に防空壕の中で、煙草を吸いながら話し込んでいたという。
しかし、昭和19年10月2日、沢村に三度目の赤紙が届いた。
11月13日、京都伏見連隊に入営。12月2日、門司港からフィリピンに向かう途中、東シナ海で敵の魚雷攻撃を受け戦死した。享年27歳。
景浦将は、昭和20年5月20日 2度目の応召
比島において胸部貫通統創により戦死。
もちろん遺骨は無い。死亡通知書と白木の箱に入っていたのは、遺骨の代わりの小さな石コロだった。