塀際の達人たち

塀際の魔術師

塀際の魔術師と言えば、巨人の平山菊二の名前が挙がります。

1948年の東西対抗戦の第5戦。7回2死から飯田徳治が放ったレフトポール際への大飛球を、レフトを守っていた平山が右手をフェンスに掛けて、ジャンプして左手をスタンドの中へ差し出しながらこのホームランの打球をもぎ捕りました。

このプレーを観た大和球士にとって「塀際の魔術師」名付けられ、これが平山の生涯の代名詞となります。

平山は強肩としても鳴らし、最多補殺24はプロ野球最多記録となっています。

レフトライン際の魔術師

塀際の魔術師が平山なら、同じジャイアンツの高田繁は、「ライン際の魔術師」。

俊足、強肩を生かしたレフトの守備は素早く、特にレフトライン際に飛んだ打球は、なかなかセカンドに進塁出来ませんでした。

そして面白いことに、自らも「高田ファウル」と言う名の痛烈なレフトへの打球が代名詞でした。

そんな、外野守備の名手、高田繁を長嶋茂雄監督はサードにコンバート。

しかも、ゴールデングラブ賞まで獲得する。そんな、2人の野球観は常人では考えらません。しかし、それに答えた高田も凄い。

外野フェンスラバー設置のきっかけになった危険なプレー

プロ野球の歴史に残るプレーは1977年4月29日、川崎球場での大洋ホエールズ対阪神タイガース戦での出来事。

大洋ホエールズが、1点を追う9回の裏の攻撃。

清水透が放った左翼後方フェンス際への飛球を、阪神の佐野仙好が、追いかけてフェンスに激突。頭を強く打ちつけ、そのまま倒れ込みました。しかし、ボールはグラブの中で放さず、捕球。無情にも、1塁ランナーが1塁からタッチアップをしてホームまで帰り、同点となりました。

本来なら、センターの池辺選手が佐野選手からボールを譲り受け内野手に返球をしなくてはなりませんが、それどころではない程の重傷でした。

すかさず、グランド内に救急車が直接乗り入れ、そのまま病院へ直行し、頭蓋骨陥没と診断の重傷。その後、復帰までに2か月間かかりましたが、規定打席不足ながら、打率3割を残しました。

当時は、外野フェンスがコンクリート製の球場が多く、川崎球場も例外ではありませんでした。その後、この出来事をきっかけに、外野フェンスにラバーが設置される事となりました。

日本シリーズでのザキャッチ

1975年、阪急ブレーブスと広島カープとの日本シリーズ第5戦。

このシリーズでは阪急が圧倒し、これまで4戦、戦って阪急ブレーブスの2勝2分け。

6回の裏、1点を追う広島の攻撃。

無死1,2でシェーンの当たりは、左中間への鋭い打球で、長打コース。完全に抜ける当たりで2人の走者がかえり、広島が逆転と思われました!

と、思いきやあらかじめ、レフトよりに守っていた福本が背走し、フェンス手前で逆シングルのまま頭上で好捕。1塁ランナーが戻れず併殺となりチャンスをつぶしました。

そのまま勢いに乗り、阪急はこの日本シリーズ1敗もせず、球団創設初の念願の日本一に輝きました。この頃、阪急の外野手、ウィリアムズ、福本、蓑田の外野トリオは鉄壁でした。

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