1996年の夏の甲子園の決勝戦での奇跡 それは、熊本工業と松山商業の決勝戦での最終回に起こりました。
9回2死からの同点本塁打
熊本工業が2-3の1点ビハインドの9回も2死となり、あとアウト1つで優勝の場面。 “浜風に乗ったバックホーム” の続きを読む
野球を愛する全ての方へ
1996年の夏の甲子園の決勝戦での奇跡 それは、熊本工業と松山商業の決勝戦での最終回に起こりました。
9回2死からの同点本塁打
熊本工業が2-3の1点ビハインドの9回も2死となり、あとアウト1つで優勝の場面。 “浜風に乗ったバックホーム” の続きを読む
甲子園球場で、堅田審判と場内アナウンスをされると、古くから高校野球を良く知るファンの拍手が起こる。
その、堅田外司昭さんが2021年の夏の甲子園大会の決勝、智弁学園対智辯和歌山 “延長18回星稜対簑島の伝説に残る一戦” の続きを読む
首里高校は1958年第40回大会に沖縄県として初出場を果しました。
優勝をして甲子園を決めた後、国際通りをトラックの荷台に乗ってパレードをしました。学校に戻ると先生、生徒がずっと待っていて大歓迎を受けました。
当時の沖縄県の野球事情はよくありませんでした。野球道具は学校からに支給され、米軍のお下がりを貰い受けることもありました。
球場にも外野スタンドの設置がなく、フェンスもないので、線を直接越えたらホームラン、ゴロで線を越えたら2塁打と草野球の様な決め事がありました。
甲子園に行く前に鹿児島の鴨池球場で、外野フェンスのクッションボールの処理の練習をして汽車に乗って甲子園に出かけました。
試合は大会2日目、福井の敦賀高校で、キャッチャーに阪神タイガースで活躍する、辻佳紀
(ヒゲの辻)が在籍していました。試合は12安打を浴びて3失点。わずか3安打の完封負け。試合終了後、選手達は、おのおのバットケースやスパイク袋に甲子園の土を入れて持ち帰りました。これは試合後によく見る光景です。
選手達は甲子園を去り、鹿児島から沖縄港に戻りました。しかし、沖縄はまだ、米国の統治下にあって植物防疫法により、甲子園の土を持って下船することは出来ませんでした。
そのまま、むなしく沖縄港の海に捨てられたのです。
この事実を知った、日本航空の客室乗務員が、甲子園の小石を首里高校に贈りました。
この行為に首里高校のナインが感銘を受け、後に、この小石を埋め込まれた甲子園出場記念碑「友愛の碑」を建立したのです。
そして、この甲子園の小石は、今も校内に静かにたたずんでいます。
1997年の暮れ、村田真一が妹から電話があり、親父が癌で余命1年という事を聞かされた。
そして、遠征に甲子園行ったときに、親父とあった。その時に親父から言われた事が
「お前に頼みがあんねん、ほんの少しの時間でいいから長嶋さんに会いたい」
村田真一はビックリしました。この時、初めて、長嶋茂雄のファンだって事を聞かられました。
村田はこのシーズンの最後の甲子園遠征の時に、長嶋監督に、5分か10分だけ時間を頂けませんか?と伝えました。
「どうしたんだ村田」長嶋監督に自分の親父の事を伝えました。すると、
「馬鹿野郎、マネージャー予定は全部キャンセルだ、村田すぐ連れて来い」
当日は神戸の竹園旅館のバーで、5分どころではなく、30分も話してくれたそうです。
お前の親父は家族と一緒なんだから当然だろ。
この言葉に村田は、感激したそうです。
その後、村田の親父は長嶋監督と一緒に撮った写真を寝床に飾ってニヤニヤしていたそうです。
親父はきっと、息子が誇らしいときっと思っていたのだろう。何せ、あの憧れの長嶋茂雄と一緒に野球をしているのだから。
長嶋伝説はいろいろありますが、94年の日本シリーズで、「このシリーズは4勝2敗でジャイアンツが勝つ」もう、優勝は決まっている、俺がシュミレーションしたから。と言ったとか、あの伝説の10.8決戦で、もう俺たちの優勝は決まっているから、とか予言者のような伝説が数多くあります。
余談ですが、ちなみに、元木の仲人を勤めたのが長嶋茂雄で、乾杯の挨拶が村田真一でした。