桑田真澄~PL学園伝説④

寮で桑田を見たことがない

春の選抜、準決勝で伊野商業に負けたことが転機になりました。

決勝戦の伊野商業の渡辺男を打てなかった清原は、寮で汗だくで素振り、そして桑田は、春の大会後、ボールを握りませんでした。この頃から、長年の、勤続疲 “桑田真澄~PL学園伝説④” の続きを読む

    投手で1番の元祖リアル2刀流

    それは、1971年8月22日ヤクルト対大洋戦での場内アナウンスで発表されました。

    ダブルヘッダーの2試合目、ヤクルト三原監督は先発の外山義明投手を1番で起用したのです。そして面白いことに、三原監督は2番にも簾内政雄投手をアテ馬として起用し、ここに1番2番投手による1、2番コンビが誕生しました。

    外山は100メートルを12秒1の俊足でバッティングセンスもあり打球の速さは、主力に勝るとも劣らないほど。三原監督は、近鉄の監督時代も永淵洋三投手を外野手として使った実績がありました。

    実は、中西ヘッドコーチも打者としての素質は文句なしとのことで、キャンプから2刀流の練習をさせていました。

    そして試合が始まると、1回の表のピッチングで先頭打者に簡単にヒットを打たれ、4番の松原誠に二塁打を浴び、早くも1失点。

    その裏1番バッターとして打席に入るも、1塁ゴロに倒れました。

    2回も、四球2つと安打で満塁のピンチを向かえると、二塁打を浴び、更に四球を与え、早々と降板となりました。

    残念ながら、この日は、打者として1打数ノーヒット、投手としては1回3分の1を投げて被安打4、与四球4、自責点5の成績で投打に精彩を欠く結果となりました。

    しかし、外山はこの年、投手として33試合に登板し、5勝11敗、防御率3.25

    打者として打率.311厘、打点11、3本塁打の成績を残し、最下位に沈んだヤクルトに明るい話題を残しました。

      背面投げのエース小川健太郎

      昭和44年、6月15日後楽園球場で行われた巨人対中日戦で、誰もが驚く光景を目にしました。

      バッター王貞治に対して、中日の先発、小川健太郎は、カウント2-1と追い込んでから、アンダースローのモーションに入るとテークバックした右腕を背中に回して、そのまま、体の左側からヒョイと放りました。球は惜しくもボールとなりましたが、打者の王は唖然と見送り、スタンドからもどよめきが起こりました。そして、直後の球をライトフライに打ち取りました。

      それだけではありません、次打席でも追い込んでから、同じ「背面投げ」で王貞治を幻惑しました。残念ながらこの球も、ワンバウンドのボールとなりましたが、この打席でもフルカウントから見事、三振に打ち取りました。

      本人は前からよく練習していたとのことで、準備よく、この試合の始まる前に審判にも、背面投げの了解を取っていたそうです。

      遅咲きの選手、小川健太郎はドラゴンズのエースでした。

      31歳でプロ初勝利を飾った遅咲きの選手です。1967年には、29勝17敗の成績で沢村賞を受賞。

      杉下茂、権藤博、小川健太郎、そして、その後、星野仙一、小松辰雄とドラゴンズのエースナンバー20を背負い今後も活躍が期待されました。

      しかし、その後、1970年、八百長オートレースに関係していた疑いで逮捕。

      球界を永久追放となりました。

        奇跡の復活谷沢健一を陰で支えた元特務機関諜報部員

        順風満帆の野球人生

        谷沢健一は昭和45年、ドラゴンズに入団、その年に新人王を獲得。49年には20年ぶりの優勝をし、51年には首位打者を獲得し順風満帆の野球人生でした。

        ところが、学生時代から懸念であったアキレス腱の痛がひどくなり、米粒大の白い塊の軟骨を発症。その影響でプレーが出来なくなりました。

        どの病院に行っても治らず、そんな時に出会ったのが小山田秀雄でした。

        名古屋近郊の春日井市で、複数のお年寄りの治療に来ていたのです。

        ある人からの紹介で小山田の元を訪ね、半信半疑のまま日本酒マッサージの治療を受けました。

        すると4日目に足がポカポカしてきたと言います。

        こうして、その後2年間、谷沢健一は福岡の小山田の実家にある診療所に通いました。

        小山田秀雄氏の経歴は元スパイ

        小山田は、第二次世界大戦中に特務機関諜報部員(いわゆるスパイ)所属して、インドネシア、満州で活躍をしていました。

        ある時、上海近郊で敵に拘束されてしまいました。ひどい拷問を受け、脱走できないように身体、手足の腱を切られ瀕死の状態になりました。

        そして死刑を執行される前日に、看守から、「煙草とお酒のどちらかをお前にやる。」

        どっちがいいのだと言われ、お酒を選んだ。

        しかし、いざ飲もうとしましたが、腱を切られているせいかグラスを落としてしまいました。飛び散ったお酒を体に塗ると、不思議と傷が癒され体が動くようになってきました。

        そして、その日のうちに古武術を使い看守に当て身を食らわせ、気絶させて脱獄しました。

        一週間マンホールの中に閉じこもって追ってがいなくなるのを待って、逃亡。

        数ある脱獄映画の様な奇妙な体験を持った人物なのです。

        そして、苦難の末、日本にたどり着きました。

        日本酒マッサージ治療

        終戦から3年後に日本酒マッサージを細々と自宅で開業。

        そして、西鉄ライオンズの影のトレーナーとしてチームの日本一優勝に貢献しました。

        あの「神様、仏様、稲尾様」の連投に次ぐ連投も小山田秀雄の功績と言っても過言ではありません。

        奇跡のカムバック

        谷沢健一は、その治療が功を奏し、昭和55年に再び首位打者に輝きました。

        この年、見事、カムバック賞を獲得しました。

        そして、もう一つ、依然と違ったことは勝負強さが増したことです。どちらか言えば、谷沢健一の打撃は淡白でチャンスに弱い打者でした。ところが、戻った谷沢健一は打点も多く、長打力も増していました。精神的にもたくましくなっていたのです。

        こうして、1982年彼の活躍もありドラゴンズは8年ぶりの優勝を飾りました。

        1985年には、見事2000本安打を達成し名球会入りも果たしました。

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