愛知学院大学リーグで21勝6敗、防御率0.93の成績を残し、また、第二回日米大学野球選手権の代表にも選ばれたアンダースローとして評価されプロのドラフトで注目されていた。
1973年のドラフト1位でジャイアンツから指名された。
当時何度も対戦をした中畑清は懐をえぐる変化球がえげつなかったと言い、当時はジャイアンツが中心で野球界が廻っていた時代に、ドラフト1位を断るなんてあり得ないと答えている。
名古屋のホテルで川上哲治監督と入団交渉したが、「熊谷組は本業の仕事があり次に野球だが、うちは野球で君を必要としている。」と言われたが、仕事として野球を選んだわけではないと思い入団を拒否した。川上哲からかけられた言葉で迷いが消え断る決心がついたという。
もし、入団していたら、背番号は19を用意し、前年まで付けていた湯口敏彦(前年死亡)であり、奇しくも1974年付けたのは、同じ下手投げの小林茂が付けることとなった。
しかし、真相は、当時はプロアマの壁が高く、柳川事件により、プロ経験者がアマの指導が困難な時代であり、アマの指導の興味があった小林は拒否したと思われる。
現に、テレビのインタビューでプロアマ協定が緩和された今の時代だったら、入団したと答えている。
「学生野球の指導者になるのが夢」でジャイアンツドラフト1位の名誉を断ったのだ。
その後、熊谷組に進み、引退後は母校である愛知学院大学の監督に就任。愛知大学野球一部リーグで15年度のうち12度の優勝を誇る。1991年には日本一輝く。
脳梗塞で入院後監督を勇退後は准教授として教壇に立つ。