二死からのサヨナラセーフティバント

1983年6月5日 阪神戦での出来事。9回裏2死満塁で高木豊がバッターボックスに入る。

ピッチャーは抑えの切り札、山本和幸。もともと左バッターの高木豊だが、この年は右打席にも挑戦し打席に入っていた。ところが思ったように成績が上がらず、この打席も左ピッチャーにも関わらず左打席に入った。

サヨナラを期待するスタンドの声援。ところが高木豊は冷静だった。サード掛布の位置が三塁より、ショート真弓のポジションも深い。満塁だから初球からストライクを投げてくる。高木豊の読み通り、初球、真ん中高めにストライクが来た、迷うことなく三遊間にプッシュバントを決めた。意表を突かれた阪神内野陣はなすすべもなく打球を見送るだけだった。

両チームの選手、スタンドの誰もが予想もしなかった、二死からのサヨナラセーフティバント。見事なアイデアだった。

    初打席ホームランで一打席のみで消えた選手

    塩瀬成道

    初めての試合の打席でホームランを放ち、その打席が最後になり、生涯を終えた?

    50年に東急に入った、塩瀬成道は、5月11日に後楽園の大映戦でプロ初登板しました。5回二死から登板し、初対戦の投手の姫野好治を三振させました。そして、次の回に自分の打席が回ってきて、姫野の初球を打つと、何と打球は右翼の最前列に飛び込みました。見事、初打席初ホームラン。

    しかし、その裏に2失点し、7回には2四球で満塁となり交代。
    結局、打者、11人に対して5四球でマウンドを降りました。その後は二度とマウンドに立たないまま同年限りでユニフォームを脱ぎました。

    つまり、打率10割、本塁打1 塁打4により生涯長打率は40割となりました。

      江川卓の8連続三振

      1984年7月24日あと1球で江川が選択したのはカーブ

      ナゴヤ球場で行なわれたオールスター第3戦。セ・リーグ先発の郭源治(中日)の後を受けて、4回から2番手で登板したのは江川卓(巨人)だった。シーズン前半戦は肩の痛みと戦いながらの登板を続けていた江川だったが、この日はストレート、変化球とも抜群のキレをみせた。

      福本豊、蓑田浩二、ブーマーの阪急トリオから三振を奪うと、5回も栗橋茂(近鉄)、落合博満(ロッテ)、石毛宏典(西武)を3者連続三振。空振りの三振を喫した落合は、「数字よりも実際の方が速かった。いま日本で一番速い投手」と絶賛するほどのストレートだった。

      実はこの日、江川の予定されていた投球回は2イニングだった。しかし、この日の江川なら1971年に江夏豊が達成した9連続奪三振に並ぶことができると、王貞治監督は続投を決めた。大歓声の中、6回のマウンドに上がった江川は、伊東勤(西武)を変化球で三振に仕留めると、続くクルーズ(日本ハム)にはこの日最速の147キロのストレートで空振り三振。大記録達成まであとひとりと迫った。

      そして9人目の打者は大石大二郎(近鉄)。ストレート2球で簡単に追い込んだ江川をみて、誰もが記録達成を確信したに違いない。
      キャッチャー・中尾孝義(中日)のストレートのサインに首を振った江川が選択したのは、カーブだった。
      この時、天才江川は、とんでもない事を考えていた。

      江夏の9連続の記録の上を行く10連続奪三振の記録だ。つまりキャッチャーが取れない位、落差の激しいカーブを投げて振り逃げを狙う事だ。

      ところが外角いっぱいのストライクゾーンに入ってしまい、バットの先端に当たった打球は力なくセカンドへと転がった。

      しかし、江川がみせた投球は、オールスターゲームにふさわしい、まさに夢の球宴のピッチングだった。

        野球の名付け親

        正岡子規が野球と訳したのは誤解。

        松山市出身の俳人。日本に野球を広めた。東京の第一高等中学校で野球の存在を知り、すぐに野球にのめり込んだ。帰郷して、松山中学校の生徒たちに野球という。正岡子規の幼名は「昇、のぼる」だが「野球、のぼーる」というユーモアあふれる雅号も有していた。あくまで雅号を有していただけであって、名付け親ではない。子規自身が「ベースボールは語訳あらず」と明言している。

        しかし、バッターを打者、ランナーを走者、フォアボールを四球と訳したのも正岡子規だとされている。

        1895年中馬庚が1893年(明治26年)第一高等中学校を卒業する際に出版する「ベースボール部史」の執筆を依頼されたが、その際にベースボールを和訳をするという課題にあたった。

        当時は、訳語を使う必要がある場合には「底球」などとしていた。しかし、これではテニスと紛らわしく、新しい訳語を考える必要があった。

        執筆も完成に近付いた翌1894年(明治27年)の秋、「Ball in the field」という言葉を元に「野球」と命名し、テニスは庭でするので「庭球」、ベースボールは野原でするので「野球」と説明した。その後、中馬は東京帝国大学(現・東京大学)に進学している。

        明治30年(1897年)、中馬は一般向けの野球専門書「野球」を5月に出版し、「ベースボール」の訳語として「野球」が一般に登場したが、雑誌や新聞で「野球」という言葉が使われるようになるなどの、いわゆる一般的な認知を受けるのはそれから5年ほど後のことになった。同年7月に同大学史学科を卒業後、兵役を経て鹿児島に戻り教師となった。

        特別表彰という形で野球殿堂入りをしている。

        出典Wikipedia

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