田中将大と若き星野仙一の連続登板

さすが王者巨人

第6戦に登板した田中をチーム全体で打ち崩した。何しろ、田中の直球に空振りをしない。スプリットも見逃されボールになる。振りがコンパクトで、坂本、村田でさえバットを短く持って確実にミートする。 “田中将大と若き星野仙一の連続登板” の続きを読む

    森安敏明

    森安敏明1965年1位で東映フライヤーズに入団。翌1966年のプロ入り初登板で初完封を挙げた。デビューから4年連続二桁勝利をあげ、尾崎行雄の次代のエースとして期待される。サイドスローから非常に速い球を投げた投手で、親友だった江夏豊や「スカウトの神様」木庭教ら多くのプロ野球OBが山口高志と共に史上最速の投手として挙げている。ただ豪速球と共にシュートも速かったが、制球力に難があるいわゆる「荒れ球」投手であり、1968年のシーズン与死球22個は日本記録。また、左打者を苦手としていた。

    野村(克也捕手)も振り遅れていたな。本当に速かった。あれなら南海だけでなく、どこがきてもそうは打たれないよ、と東映・水原茂監督も孫ほど年の違うルーキーを褒めちぎった。シュート回転しながらインコースをえぐる直球に野村は「手がしびれた。おっかない球や」と脱帽した。

     スピードガンなどない時代。サイドスローから繰り出す真っ直ぐの球速はどのくらいだったのか。想像の域を出ないが、対戦した打者の証言を総合すると、初速と終速の差があまりないという

    速球男の中でも「打てるなら、打ってみろ!」の乱暴さが魅力になっていた。対戦した打者たちは「一番速いかどうかは分からないが、一番怖かったのは確か」と口をそろえる。

    有藤通世氏(元ロッテ)が「(森安は)ピッチングより、ぶつけるコントロールの方が良かった」と苦笑していたが、明らかに報復と疑われても仕方がない投球もあったが、荒れ球の超スピード・シュートがほとんどだったから、ちょっと手元が狂ったら大ごとになってしまう危険があった。

     ただし、打者ではなく森安氏本人にとって大ごとになってしまうことがしばしばだった。右打者にとって、ヒザ元に食い込むのではなく、外から真ん中に曲がってくる投げそこないのシュートほど“おいしいもの”はないからである。プロ初登板が完封だった(66年4月13日、南海戦で1対0)が、南海の打者は恐ろしくて腰が引けっぱなしだったのだろう。

     しかし、慣れられると、甘くなったシュートをポンポンホームランされ、69年にはホームラン配給王(34本)。四球王も2度。それでも、どこに来るか分からない超荒れ球(68年の22死球はプロ野球最多記録)の持ち主が66~70年の5シーズンで242試合(“黒い霧事件”で永久失格選手となった70年は14試合)も投げることができたのは、球速とともに「球威」があったからである。

      代打ホームランの世界記録

      代打 高井保弘

      ダリル・スペンサーから癖を学んだ。バックネット裏に変装して張り込んでピッチャーの癖を盗んだ。そこには古き良き時代があった。

      74年に野村克也監督の計らいでオールスターに監督推薦で選ばれた。代打専門の選手が選ばれたのも驚きだが、パーリーグ監督の野村は、長い下積みの苦労人、代打専門の高井の打棒を評価していた。

      そして、絶好の場面がやって来た。2対1の1点ビハインドの9回1死ランナー1塁。マウンドにはヤクルトのエース松岡弘。

      オープン戦で一度、松岡と対戦して、左肘が下がると、ストレートもしくはシュート。併殺狙いのシュートを予測して、左足を開いて内角を上手くさばいた。インコース低めの難しい球を見事にレフトスタンドに打ち込んだのだ。オールスター初の逆転サヨナラホームランとなった。

      大リーグでは、指名打者制度が既に採用していたが、アメリカの記者O・マイヤーズがこの高井に関心を持っていた。高井の活躍から、75年からパリーグの指名打者制度が生まれた。

      81年9月3日の西武戦。若い選手に混ざって代打の準備をしていた。俺が勝負決めるから「お前ら、道具揃えて帰る準備しとけや」と言った。

      相手投手は永射保。ストレートに照準を合わせると、レフトスタンドに飛び込むサヨナラホームランを放った。

      野村克也が「ささやき戦術」で「何(のボール)待ってんのや」と話しかけてきたときには、「ヤマの張り合いをしよう」と持ちかけ、投球の球種を当てた上に、最後には本塁打した。ダイヤモンドを一周して戻ってきたときに野村が「われ、何でわかんのや」と聞いたが「そんなこと言えまっか、言えまへん」と答えた。

      通算代打ホームラン27本の世界記録を残し、2019年12月13日、病のために死亡した。

      27本目を打ったバットは今も、野球殿堂博物館に保管されている。

        怪童尾崎行雄

        サイドハンドに近いスリークォーターからの剛速球。

        浪商を2年で中退して、東映フライヤーズに入団し、最初の年に20勝9敗で新人王を獲得した。18歳での新人王は現在に至るまで史上最年少である。契約金は5000万と言われているが、当時3年前に入団した長嶋茂雄の契約金が1800万、だったのを考えると破格の金額である。

        オープン戦で長嶋茂雄と対戦し3球三振。しかし、大毎の4番打者山内和弘に「尾崎は球が速いだけで大した事はない」と語ったのを知った尾崎は、開幕第2戦でリリーフし葛城隆雄を投手ゴロ、榎本喜八を三振、そして山内和弘を外角低めの快速球で見事三振に仕留めた。その間の15球は全てストレートだった。

        そのストレートはサイドハンドに近いスリークォーターから、うなりをあげて飛んでくると言われ、時速159キロと計算した研究者もいたが、僕の場合終速が速かった、と本人が語っている。

        そして、高校時代からプロ1年目の頃の尾崎が、一番球が速かったと言われている。

        東映で尾崎とバッテリーを組んでいた、種成雅之は「僕の野球人生に中で、捕球した時に、ボールの勢いでミットが止まらなかったのは、尾崎だけ」という証言している。9月11日でようやく18歳になる少年に、ストレートだけで20勝してしまった。当時、ミサイル打線と言われた大毎から最多の6勝を挙げた。

        しかし指にマメの出来る体質に苦しみ、また酷使の影響もあって29歳で現役を引退。プロ通算107勝を挙げ、夏の甲子園の優勝投手としては戦後初のプロ通算100勝投手となった。

        引退後はレストランを経営した後、スポーツ関係の会社に勤務。少年野球の指導を行っていた。2013年6月13日に肺がんのため死去。68歳没。

        投手寿命を縮めた右肩痛は酷使だけでなく、ボウリング元凶説がある。当時の番記者が回想する。
         「なにしろボウリングが好きで、ボウリング場通いをしていた。野球の剛速球並みに投げるから、ピンが壊れてしまったこともあった。でも、太く、短くは尾崎らしいと思った」と。これまた怪童番外伝説だ。

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