審判員 田仲俊幸
落合の凄さ
試合前の打撃練習での出来事。打撃投手のゆるい球を打って調整していた落合が、この球を10球打って何球スタンドに入る?と聞いてきた。せいぜい4~5本だな。 “審判の裏話” の続きを読む
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審判員 田仲俊幸
落合の凄さ
試合前の打撃練習での出来事。打撃投手のゆるい球を打って調整していた落合が、この球を10球打って何球スタンドに入る?と聞いてきた。せいぜい4~5本だな。 “審判の裏話” の続きを読む
練習の虫 高橋慶彦
1979年、広島市民球場での巨人戦。1回の裏、最初の打席、右打席に立つ高橋に球場、テレビのすべての視線が集まった。新浦の2球目をレフト前に運びあっさり達成した。
新記録が懸かった試合は7月31日、広島市民球場での巨人戦。1回裏、1番打者として右打席に立つ高橋に球場のすべての視線が集まった。巨人の先発・新浦寿夫が投じた2球目をレフト前に運び、ついに日本記録を更新。球場中が歓喜に包まれた。
入団後、スイッチヒッター習得のため、古葉監督指示のもとコーチの山本一義コーチの候特訓を受け、朝から晩までバットを振り続け、食事時も寝る時もバット放さなかったという。この高橋の成功が後の数々のスイッチヒッター誕生のきっかけとなった。
しかし、大記録を打ち立てた高橋だったが直後の2回、守備中に負傷し途中退場してしまった。8月8日の阪神戦で復帰したものの、ノーヒットに終わり、連続安打記録は33でストップした。
1937年、同じ宇治山田市出身で職業野球のエースの沢村栄治との対戦を望んで、職業野球の大阪タイガースに入団した。
1937年秋、巨人との開幕戦でリリーフして勝利投手となると、15勝3敗・防御率1.48で最多勝利と最優秀防御率の2冠となり特に巨人に対しては4勝無敗の成績を収めて、職業野球を代表する投手となった。
1937年12月1日から12月7日にかけて春優勝チームの巨人との間で行われた4勝先取の年度選手権決定試合では、登板した3試合全てで完投勝利し、年度優勝の立役者となった。特に、第1戦と最終戦の第6戦では、巨人のエース沢村栄治との投げ合いを制し、シーズン優勝に続いて、ここでも現在でいう胴上げ投手になった。
1938年春にもタイガースは独走で優勝し、前年秋からの連覇を果たした。西村は、このシーズンも主戦投手として活躍し、しシーズンを通して安定した投球を続け、前シーズンに続いて最優秀防御率のタイトルを獲得した。
しかし、1939年になると肩の故障のために度々打ち込まれるようになり、最後の公式戦登板となった11月12日の対巨人戦では、6失点で降板した。
同年末、3年連続とな東西対抗試合出場を終えると契約切れで退団した。
1944年3月に応召し、1945年4月3日、フィリピンのバガンガスで戦死。
1977年、野球界に対する貢献が認められ、特別表彰の野球殿堂入り。
ニッケルカ-ブ(現在でいうスライダー)を武器とし、クロスファイヤが特徴。カーブ、シュートも投げる。 主戦投手として初代巨人キラーとしても知られる。
現在では、「酒仙投手」と呼ばれることも多い。
景浦将は元祖、二刀流の選手。大学野球から、父親の材木商が経営難で家計を助ける為に、職業野球を選んだ。
背番号は6番で当初は外野手であった。しかし、当時の大阪タイガースは内野不足で、三塁手にコンバートされた。
当時の甲子園は今よりも両翼が18.28mも深く、昭和9年にベーブルースを中心とした全米オールスターチームが来た時もホームランが一本も出なかったが、景浦将は楽々とスタンドに打球を放り込んだ。重戦車のような体でスイングすると10本のうち4本は甲子園のスタンドに届いた。
坪内道則は、ホームランを狙った打球は、タバコが一服できるくらい高く上がり加速度がついて落ちてくる。弾丸ライナーになった時は怖くて手が出ないと語っている。
入団年、昭和11年が6月27日、記念すべき、伝統の巨人阪神の第一戦が行われた。試合は乱打戦となったが8対7でタイガースが勝利を飾った。持ち前の長打力を武器に主軸として活躍した。この年の秋のリーグ戦では、投手として、出場して最優秀防御率のタイトルを獲得している。
沢村が好敵手。東の沢村、西の景浦。職業野球は沢村が投げ、景浦が打ち始まった。
昭和12年、最多打点、投手としては22試合の登板、11勝5敗防御率0.53という成績を挙げた。沢村が0.81に次ぐ2番目の記録である。秋季リーグでは、3割3分3厘、で首位打者。そして、最優秀防御率のタイトルを獲った。すなわち、最優秀防御率と首位打者の二冠である。
日本のプロ野球において、投手と打者のタイトルを獲ったのは景浦のみである
しかし、昭和15年に応召。中国大陸へ派兵された。満期除隊になった景浦は、球界に復帰したが、戦地での日々は強靭な身体を大きくむしばんでいた。復帰1年目は打率2割1分6厘と低迷、守備でも肩の衰えが目立ち、サードから一塁までの送球が不安定になった。結果、景浦はファーストへコンバートされた。戦地での手榴弾の投げ過ぎが原因だとされる。
秋のリーグ戦後、阪神軍、阪急軍、南海軍、朝日軍の選手たちは兵庫県にある川西航空機の工場で働くことになった。昭和19年、景浦は驚くべき出会いがあった。沢村栄治との出会いである。ほんの数年前に、ライバルとして戦って大観衆から声援を受けてきた2人が、航空機の脚や燃料タンクの骨組みを作る作業に追われていた。作業の合間の休憩時間に2人は防空壕の中で煙草を吸いながら話し込んだという。
以後、景浦は解散寸前の職業野球に見切りをつける形で自ら引退。そして、職業野球もこの年の夏季リーグ戦を持って終了となる。
そして、間のなく2度目の応召。台湾、フィリピンと転戦。昭和20年5月20日ルソン島のカラングランで亡くなったとされる。景浦の所属した中隊は、激戦をくり返しマニラ付に籠っていた。やがて彼は黄疸にかかり高熱にうなされていた。そんな彼に食料探しの当番がまわって来た。疾病に冒された身体で
鬱蒼とした密林へ入っていった。そして、二度と戻らなかった。
昭和20年5月20日景浦将は2度目の応召。比島において胸部貫通統創により戦死。
両親へと届けられた白木の箱の中は遺骨ではなく、死亡通知書と小さな石コロが2、3個入っていただけだった。